それぞれの戦争を訪ねて21⑤ 木下 美津夫さん

写真=国民学校時代の体験を話す木下さん

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子どもたちの生活にも暗い影

1931年(昭和6)の満州事変、37年(昭和12)の支那事変を経て、41年(昭和16)12月8日には米英との戦争が始まった。戦争は国民の生活に大きな影響を与え、「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などのスローガンを掲げ、国全体が戦争一色に染まり、子どもたちの生活をも変えていった。日高町萩原の木下美津夫さん(87)も、多感な小学校時代に戦争を体験した。

木下さんは34年(昭和9)5月1日、日高郡東内原村萩原(現日高町萩原)で農業を営む父芳造さんと母きよのさんの三男、6人きょうだい(男4人、女2人)の4人目として生まれた。

真珠湾攻撃で日米戦が始まる8カ月前の1941年4月、現在の小学校に当たる内原東国民学校に入学した。学校生活も戦争一色で、朝礼では天皇陛下がいる東京方面に最敬礼(東方遥拝)で始まり、校長が各地で勝利を挙げる日本の快進撃を報告することから始まった。

校長が話す華々しい戦果とは裏腹に、実際の日本の戦況は厳しくなる一方。学校のグラウンドは朝礼する場所を残し、サツマイモ畑となった。「いまの職業訓練センター(荊木)あたりにも畑があり、よく学校から肥料の糞尿を運びました。夏の暑い日にあまりにものどが渇いたので、溝の水を飲みました。そしたら先生に『みんな辛抱してるのに貴様は』とビンタされたことを覚えています。あの頃はとにかく辛抱して立派な兵隊になることが正しい時代でした」と話す。

戦況が悪化の一途をたどる中、日高町上空にB29の大編隊が姿を現した。大阪に向かう途中のようで、空襲警報が鳴り、学校の子どもたちは帰宅を促され、家が学校から遠かった木下さんは運動場の隅にある壕に教員らと避難した。上空を飛ぶB29を一目見たかった木下さんは、壕の入り口まで行き、空を見上げた。「B29の後ろから白い煙が出てたんですよ。『日本がやったんだ』と喜びましたね。でも『あれは飛行機雲だ』と先生に教えられ、がっかりしたことを覚えています」と話す。上空を飛ぶB29には地上から高射砲が撃たれたが、子どもの目にも届いているようには見えなかったという。

 

グラマンの機銃掃射、間一髪かわす

写真=木下さんが機銃掃射を受けた萩原地内の西川

上空にB29が飛ぶようになったある日、木下さんは子どもたちだけで、田んぼの草取りをしていた。突然、「シュンシュンシュン…」という音とともに、周辺の田んぼの水が跳ねた。何が起こったのかわからずとっさに近くの川に逃げ込んだ。あとで大人に聞いたところ、上空で炸裂した高射砲の破片だった。破片とはいえ、人に当たると大けがをする可能性があった。

上空にはB29だけでなく艦載機のグラマンも現れ、偵察飛行する姿を見るのは日常茶飯事となった。そんなある日、木下さんは友達と数人で貴重なタンパク源となる川魚をとっていた。いつものようにグラマンが飛んできたが、普段とは動きが違った。こちらに向かってきたかと思うと、一気に急降下した途端、「バババババッ」と機銃を乱射してきた。慌てた木下さんらはとっさに川べりのくぼみに隠れてかわすことができたが、3、4㍍横で銃弾による水柱が走った。軍事教育を受け反米の強い思いを持っていた木下さんだったが、その時はただただ恐怖でいっぱいだったという。グラマンはたびたび襲来するようになり、汽車に向かって銃撃する様子を見たこともあった。「汽車を撃ったり、戦争に影響しない私ら子どもを撃ったりと、まるで遊んでいるように見えましたね」と話す。

日本の外地での撤退が続き、本土決戦が濃厚となってくる中、美浜町の煙樹ケ浜に米軍が上陸するとの臆測が広がった。日本軍は上陸に備えるため、海岸線の西山などに壕を掘る作業を進め、駆り出された兵隊は周辺の学校に宿泊した。内原東国民学校にも兵隊たちが宿泊し、授業は寺などで行われた。子どもたちは兵隊との会話は禁止されていたが、兵隊から話しかけてくることがあったという。「ある日、兵隊さんが手招きして『何か食べ物をくれ』というので、母に頼んで麦を炒った物を渡したら、喜んでくれてお礼に帽子をもらいました。帰って母に見せたら『命がけで戦う兵隊さんからもらうとは』と怒られ、返しに行きました。兵隊さんは大阪の裕福な家庭で育ったようで、『いい暮らしができるのになんで兵隊なんかに』と嘆いていました」と、当時を振り返る。

美浜町三尾で空襲があった際は、三尾が移民の村だったため「『スパイが潜んでいて、西山に壕を掘っていたことをアメリカに伝えたからだ』といううわさが飛び交いました。また、空襲のあと、中学生の何人かが不発弾を持ち帰り、家で爆発したという事故もありました」と話す。

天皇陛下の玉音放送があった1945年(昭和20)8月15日。木下さんは学校の友達とわら草履づくりに励んでいた。そこに女子が走りこんできて、日本が戦争に負けたことを伝えた。「えー」「なんでよー」と子どもたちは驚き、中には「頭を丸めないと米兵に強姦される」という女子も。みんなが驚き嘆く中、木下さんは両親の会話が頭をよぎり、それほど驚くことはなかった。

父芳造さんは満州事変、支那事変と二度、衛生兵として出征し、肩に銃弾を受けたが無事帰還していた。43年(昭和18)暮れに赤紙が届き、三度目の招集を受けた。愛知県の部隊に配属され、3カ月に1回程度帰ることがあり、その際、戦況を尋ねる母に、「今度の戦争はなぁ…」と敗戦を予想し言葉を詰まらせていた。そんな会話をそばで聞いていた木下さんは、和歌山空襲の時に見た真っ赤な空と相まって、日本の敗戦は小学生ながら予期していたという。

芳造さんは三度目の召集も無事に生きて戻り、再び農業を始めた。木下さんは中学、高校を卒業し、運送業などを経ていまに至る。戦争一色の子ども時代を振り返り、「天皇陛下のために命をささげるものと教わって育ってきたのに、終戦になった途端、先生の言うことも教科書の内容も一気に変わりました。再び戦争が起こらないためにはなにより教育が大事です」と話し、地元の小学校の平和学習に講師として参加するなど、子どもたちに戦争の悲惨さを伝えている。

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