終わらざる夏2020④ 鈴木徹三さん

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根室空襲、艦載機が猛爆

大東亜戦争末期、制海権を失った日本は北海道まで米軍に押し込まれ、1945年(昭和20)7月には13隻の米空母が北海道南部の沖合に展開。14日から15日にかけて、延べ3000機以上の艦載機が主要都市に無差別爆撃と機銃掃射を行った。美浜町三尾に暮らす鈴木徹三さん(86)は当時11歳の小学校6年生。北海道本島の最東端、北方領土がすぐ目の前の根室市で激しい空襲の中を逃げ回った。

瀬戸内海北部の水島灘に浮かぶ広島(香川県仲多度郡広島村=現丸亀市)出身の父、沢一(さわいち)さんは北大農科を卒業し、福井県出身のスエさんと結婚。根室市に近い別海町で牧場を経営しながら、1933年(昭和8)に6人目の徹三さんが生まれる前、漁業が盛んな根室へ移り、金物店「かねす」の経営を始めた。サンマやスケトウダラ、ホタテなど水産資源に恵まれた根室は、千島をソ連(現ロシア)に不法占拠される前は北の一大漁場として活況を呈し、船の道具を取り扱う沢一さん夫婦の店も順調だったが、45年7月の空襲で鈴木さん一家は家を失い、逆境に立たされた。

14日から15日にかけて、米軍は函館、小樽、旭川、室蘭、釧路など、軍港や軍需工場があった都市を艦載機で攻撃。特に被害が大きかったのは沿岸の室蘭市、釧路市、根室市で、根室空襲研究会の近藤敬幸さんの調査によると、当時の根室市には2万1670人が住んでいたが、空襲により約半数の1万1000人が焼け出された。消失家屋は2357軒に上り、おおむね街の7割強が爆撃や火災で失われたという。

根室では14日、上空に多くの敵機が現れたが、なぜか爆撃はほとんどなかった。沢一さんが「きょうは偵察だから、明日(15日)は必ず爆撃がある」と予想した通り、15日は朝から無数のグラマンが根室の街を襲撃した。当時、徹三さんの家では徹三さんと両親のほか、長女の牧江さん、三女の千恵さん、四男の正光さん、四女の勝子さん、五男の昭弘さんの計8人が生活。長男の勇一さんは岐阜県大垣市の航空機製造工場、次女の園子さんは警察の監視隊に勤務し、旧制中学校5年生だった次男憲二さんは学徒動員で知床半島の羅臼の近くの村へ松の木の油を採る作業に駆り出されていた。

午前9時ごろ、空襲警報を聞いた徹三さんは両親と弟の正光さん、昭弘さん、妹の勝子さんの6人で東の郊外にあった根室牧場(現明治公園)を目指して家を出た。まだ小さかった勝子さんは父、末っ子の昭弘さんは母がおんぶし、長女牧江さんと三女千恵さんは飼っていた猫と一緒に家に残った。

徹三さんらは途中、1㌔も行かないうちに空襲が激しくなり、地方新聞の根室新聞社の社屋前にあった防空壕へ逃げ込んだ。「ヒュ~」というプロペラ信管の音、爆弾が炸裂する音が耳をつんざく。手を合わせて念仏を唱える大人のそばで身をかがめていると、凄まじい爆音とともに防空壕の蓋が吹き飛んだ。「まずい、こんなところにいたら死ぬ」。徹三さんはまだ空襲が続くなか、1人で壕を飛び出した。頭のすぐ上に3、4機のグラマンが見えた。機銃弾が足下をかすめる。両親やきょうだいの声は聞こえなかった。無我夢中で走り、根室牧場の近くにあった防空壕に飛び込んだ。

 

鍋に遺骨? 焼け跡に立ち尽くす母

徹三さんが根室牧場(現明治公園)近くの防空壕へ逃げ込んだとき、敵機グラマンによる空襲は怒とうの第二波が続いていた。着替えだけが入ったリュックを背負い、すし詰め状態で身動きできない壕の中で、壁にもたれていつのまにか眠っていた。どれぐらいの時間がたったのか、朝になって外に出ると、根室の街は完全に焼き尽くされていた。

家族とは連絡がとれない。自分の家を見に行きたいが、市街地は火災とその熱で近づくことができない。防空壕の持ち主の養鶏場経営者に食事を世話になりながら、4日ほどたってようやく火がおさまったが、道には布団をかぶったまま死んでいる人が何人もいた。家から逃げる際、身を守るために布団をかぶって逃げた人たち。それがかえって目立ったのだろうか。敵の機銃の標的となった。「そのときはもうそんな死体を見ても、怖いとか、かわいそうとかいう気持ちはまったく湧かなかったですね」。極限の恐怖にさらされた少年は、感情が消えてしまっていた。

松ケ枝町まで歩いて戻ったが、自分の家も周りの家もみんな焼けてなくなっており、そこに1人、鍋を手に立ち尽くす女性がいた。「母さん!」。徹三さんは駆け寄って抱きついたが、母は涙もなく完全に気が抜けていた。

4日前の朝、徹三さんら家族6人が避難したが、長女の牧江さんと三女の千恵さんは家に残った。空襲が激しくなったとき、牧江さんと千恵さんは飼い猫と一緒に家にいたが、機銃で開いた板壁の穴から外へ飛び出し、隣にあった病院との間の小さなドブの泥の中につかり、燃え盛る家の炎から身を守った。その後2人は花咲線の線路沿いを西へ約40㌔、2日がかりで歩き、厚床(あつとこ)の知り合いの家へたどり着いた。

その事情を知らない母スエさんは、牧江さんと千恵さんが焼け死んだと思った。2人が身を潜めた押し入れがあった場所には骨が落ちていて、スエさんはそれを遺骨だと思い、拾って鍋に入れていた。そこで徹三さんと再会し、すぐあとに被害調査で回ってきた消防署の人には娘2人が死んだと報告した。徹三さんは「あとで分かったことですが、おふくろが拾った骨は、飼っていた猫の骨だったんです。でも、そのときは状況が状況ですからね。姉2人の骨だと思って、消防署の人にはそういいましたし、消防署の人も神妙な顔で猫の骨に手を合わせてくれたのを覚えていますよ」と笑って振り返る。

徹三さんはその後、父沢一さんと3人の弟、妹とも無事再会でき、学徒動員で100㌔以上離れた知床半島の村にいた兄憲二さんは、夜に燃え盛る根室の街を見て、心配になって歩いて家まで戻ってきた。

7月20日ごろ、家族全員の無事が確認できたあと、家の近くで蒲鉾店を経営していた人の好意で、根室から西へ約270㌔離れた上川地方北部の上士別(かみしべつ)という山村へ一家で疎開した。旭川と日本最北端の稚内を結ぶ宗谷本線、名寄(なよろ)の手前にある士別から、さらにおもちゃのような軽便鉄道(鉄道敷設法に規定されない小規模鉄道)で移動。蒲鉾店経営者の知り合いの人の離れの一部屋を借りて生活し、そこで8月15日を迎えた。

終戦後、家族は再び根室に戻り、2年ほどして一家で沢一さんの故郷、香川県の広島へ移った。それからほどなく、沢一さんは病気のため63歳で他界。戦時中、警察の監視隊にいた次女園子さんは小学校の教師、学徒動員で松根油採集に駆り出されていた次男憲二さんは村役場の職員となり、徹三さんは中学を卒業後、親戚を頼って大阪市大正区の造船会社に就職した。

その後、一つ下の妻サクコさんと出会って結婚。一男一女をもうけ、造船会社を定年退職したあと、26年前にサクコさんの母親の里である美浜町三尾へ夫婦で引っ越してきた。

家族が力を合わせて国難の時代を生き抜き、戦後は香川の讃岐広島から、きょうだいはそれぞれの人生行路を歩んだ。徹三さんは根室、香川、大阪、美浜町と渡ってきたが、自分の故郷は「やっぱり生まれ育った根室ですね」という。半島の先の納沙布岬からはすぐ目の前に国後島、歯舞群島が見える。

根室は冬に友達と流氷に乗って遊んだことなど、楽しかった思い出がよみがえる。ただ、それもあの空襲によってすべてが変わり、(旧ソ連に)千島を奪われてからは街がさびれてしまった。北方領土は「おそらく返ってくることはないでしょう」と半ばあきらめの色がにじむが、日本国民として断固、固有の領土返還を求める気概に変わりはない。戦後75年目の夏。近く妻サクコさんと一緒に、住み慣れた三尾を離れ、和歌山市の長男家族の元へと引っ越す。

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