終わらざる夏2019⑧ 南嘉美さん

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乳飲み子抱え上海から引き揚げ

御坊市島に暮らす98歳の嘉美(よしみ)さんは、1921年(大正10)4月1日、旧和田村(現美浜町和田)で父楠本友吉(ともきち)さん、母ふじえさんの6人の子どもの4人目(二女)として誕生した。兄2人と弟2人は両親と一緒にカナダ(BC州バンクーバー)で暮らし、年長の長女久子さんと嘉美さんは、「学問をつけさせたい」という両親の考えにより日本で育った。

父と母は4人の息子たちとカナダでリンゴ園を経営し、稼いだお金の一部を日本へ送金。嘉美さんは和田の家で、親代わりのヤスさん(父の姉)に面倒をみてもらいながら、33年(昭和8)に小学校を卒業すると、日高高等女学校に進学した。卒業後は2年ほど、御坊の椿(薗)の先生に洋裁と和裁、華道、茶道を習った。いわゆる花嫁修業。先生の家へ行くときは着物を着て、下駄をはいて歩いて通った。

日本が米国との戦争に突入、国民生活がしだいに厳しくなってきた44年(昭和19)の初め、和田の家で和裁の仕事をしていた嘉美さんに縁談が舞い込んだ。相手は名田村(現御坊市名田町)に生まれ、中国の上海で暮らしている南楠之助さん。嘉美さんより3つ年上の28歳で、支那事変(日中戦争)の際に兵士として大陸に渡り、満期除隊後、日本の紡績会社「鐘紡」に就職し、そのまま中国に残っていた。

嘉美さんは不意の縁談に戸惑ったが、楠之助さんの誠実さと「中国という土地を見てみたい」という好奇心もあり、思いきって嫁に行くことを決断した。3月6日、御﨑神社で式を挙げ、21日には神戸を出港。5日後の26日、上海の港へ到着した。

楠之助さんと嘉美さんは会社の近くの社宅に入り、畑で芋や野菜を作り、嘉美さんも現地の中国人のボタンつけの手仕事をしながら、食べるものに困るようなことはなかった。45年3月には長女が誕生。名前は2人で相談し、嘉美さんの名前をひっくり返して、美嘉子(みかこ)とつけた。しかし、一家3人の幸せな日々はつかの間、対米戦の戦況悪化に伴い、上海も日本の大都市同様、日増しに空爆が激しくなってきた。

空襲警報が鳴るたび、嘉美さんはまだ首も据わらない美嘉子さんを抱いて、楠之助さんと一緒に防空壕へ駆け込んだ。そこはしっかりとした造りで広さも十分だったが、社宅から遠く、10分ほど歩かねばならなかった。「上海では大きかった鐘紡の工場が狙われたんでしょうね。昼といわず夜といわず、いつ空襲があるかビクビクしながら、眠れない日々が続きました」。このままでは危ないと判断した楠之助さんは、嘉美さんと美嘉子さんを日本へ帰すことに決めた。

わずか1年余りの夫との新婚生活。嘉美さんは45年5月12日、生後42日の美嘉子さんを連れて、同じ鐘紡社員の妻2人とともに上海を出発した。背中のリュックは、砂糖や小豆などでパンパン。「日本はもう、お金よりも食べ物がものをいうはずや」と、楠之助さんが2人の無事帰国を願って詰め込んでいた。

 

船が九州到着目前で沈没

 

嘉美さんは夫楠之助さんの同僚の妻2人とともに、汽車で上海を出発した。1人は四国、もう1人は大阪から来ていた人で、中国にあったいくつかの鐘紡支社の社宅に泊めてもらいながら移動したが、大阪から来ていた人は中国を離れる前に病気で亡くなった。嘉美さんは「私らも生きて日本へ帰れるんやろか…」と不安になったが、懸命にお乳に吸いつく美嘉子さんを抱きしめ、「たとえ自分は死んでも、この子は絶対に名田まで送り届ける」と気持ちを奮い立たせた。

上海を出発して10日以上がすぎ、どこの港だったかは忘れたが、ようやく九州行きの船に乗り込むことができた。「よかった。これでもう日本へ帰れる」。暗い船室で美嘉子さんと並んで横になり、安心して眠りについたとき、凄まじい爆音と下からの衝撃に襲われた。嘉美さんは体が浮き上がり、床にたたきつけられた。見ると、自分と美嘉子さんの間に割れた天井の壁が落ちていた。泣き叫ぶ美嘉子さんを抱き上げ、リュックを背負って混乱する船内を逃げ回った。

船は港へ到着する寸前、敵潜水艦の魚雷が命中、沈没した。あまりに強烈なストレスのせいか、嘉美さんは沈む船からどうやって脱出し、どうやって港までたどりついたのか、その間の細かい記憶がすべて抜け落ちている。とにかく無我夢中で、気がついたときは美嘉子さんを抱いて、博多の街を歩いていたという。

空腹に耐えながら、今夜の寝床を求めて何軒かの旅館を訪ねたが、どこも満杯だと断られた。ここが駄目なら野宿しかないと、わらにもすがる思いで入った最後の一軒。「何か食べるものは持っているのか」と聞かれ、嘉美さんがリュックに入っていた砂糖を差し出すと、一晩だけ泊めてもらえた。楠之助さんの予想通り、現金よりも食べ物がものをいった瞬間だった。

和歌山へ帰ってからは和田へは戻らず、名田の夫の実家に身を寄せ、義理の兄夫婦に世話になった。まもなく戦争が終わり、やれやれ…とひと安心となるも、中国にいる楠之助さんとは音信不通の状態が続いた。会社からも連絡がなく、安否も分からないまま年が明け、46年2月になって同じ社宅の夫の同僚から手紙が届き、楠之助さんが前年7月に空襲で亡くなっていたことを初めて知らされた。

その手紙によると、上海の社宅の裏には簡易の防空壕があり、嘉美さんが一緒に暮らしていたときは、遠くの頑丈な壕へ逃げていたが、嘉美さんが日本へ帰ったあと1人になった楠之助さんは、警報が鳴ると社宅裏の壕へ逃げるようになった。7月20日、楠之助さんは同じ社宅の社員とともに裏の簡易壕へ避難し、そこに爆弾が直撃したのだという。

嘉美さんと美嘉子さんが帰国後、楠之助さんからは3万円という大金の送金があったが、どういう理由なのかも分からないまま、それが最後になってしまった。

夫からの仕送りはもちろん、蓄えもすべて失った嘉美さんは自立するため、義兄夫婦や村会議員、親類の支援を受けて、京都の洋裁学校に通って正式な指導者の免状を取得。30歳を過ぎてから13年間、地元の公民館事業で住民に洋裁を指導した。その後、美嘉子さんの結婚を機に嘉美さんは島の現在の家に移り、いまも年に1回、5月の連休には埼玉で暮らす美嘉子さんが孫、ひ孫と一緒に帰ってくるという。

「中国から戻る途中、船が沈められたときはほんまに怖かった。だから美嘉子にはいつもいうたんです。『あんたは命拾いしたんやから、しっかり長生きせなあかんよ』って」。いまは地域の春日サロンや老人会の笑和会で友達と過ごす時間が楽しく、家でも時間を見つけてはせっせと編み物を続けている。

「友達にもいわれるんですけど、この年になってもこうして元気でいられることが、何より娘孝行になってるんやと思います」。乳飲み子を抱えて大陸からの引き揚げ、船の沈没、夫の死…あの戦争に人生をほんろうされ、乗り越えてきた苦難に比べれば、この夏の猛暑も何ともないかのよう。その明るく元気な姿が近所の人たちの目標となっている。(おわり)

この連載は玉井圭、田端みのり、上西幹雄、片山善男、山城一聖、小松陽子が担当しました。

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