終わらざる夏2019⑦ 御坊商工高等学校 「平和を考える会」

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34年前、活字にならなかった一冊の本

活字の本として出版されることのなかった、一冊の戦争体験集がある。タイトルは「軍靴の響き」。今から34年前の1985年(昭和60)に作成された、手書きの原稿をまとめた本である。当時、パソコンやワープロはまだ普及していなかった。著者名は「御坊商工高等学校『平和を考える会』」。執筆陣には、当時御坊商工高校(現紀央館高校)に勤務していた教職員らの名が並ぶ。

序文では、当時「平和を考える会」の代表を務めていた湯浅町の男性が、東西冷戦が頂点に達しようとしていた85年当時の世界情勢を解説。時の日米首脳は「ロン・ヤス」の仲といわれたロナルド・レーガンと中曽根康弘氏。米ソを中心に、果てしない軍拡競争が起こっていた時代だ。「戦後40年経ったいま、戦争を知らない世代とともに平和を語り、根づかせ、『学校平和宣言』を採択して平和教育運動を定着させたい」と述べられている。

5年前、元御坊商工事務長の小竹喬さん(御坊市湯川町小松原)が84歳で他界。遺品を整理していた妻の幸子さん(82)が、大事に保管されていたこの「軍靴の響き」の原稿を見つけた。目を通し、「貴重な記録。書籍化はされていないけれど、こんな体験記録集を作った人達がいたことを広く知ってほしい」と思った。

執筆者の一人には、幸子さんの長兄で当時御坊商工に勤務していた、故伊藤弘義さんも名を連ねる。「昭和十六年十二月八日」と題して、陸軍兵士として中国・九江に駐屯中、日米開戦の知らせを受けた時のことを綴っている。

「その日(十二月八日)は中国大陸の南端の広州から珠江を通って百㌔㍍近くある九江というところに駐屯していた。付近は山岳地帯であるので、ゲリラの出没もはげしく、日本軍、国府軍(中国正規軍)、八路軍(共産軍)が三つ巴になって戦っていたのである」

「赤紙一枚で南シナ海をわたり、現地に来てから一年あまり経っていたので、どうにか一人前の兵隊として通用していたが、軍隊生活特有の陰惨な明け暮れは、実際に経験したものでなければとても判ってもらえないと思う」

「少しずつ兵員が消耗し、戦友もへっていく状態の中で、いつ祖国へ帰れるというあてもなく、毎日毎日を怒号と戦闘の中で送っているとやりきれなくなり、自暴自棄になる者も出てきた。

そのような時、対米英開戦の詔勅をきいたのである。当時、部隊本部では常に短波のラジオを持っていたので、大本営発表の『帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』との放送も明確に聞こえた」

「世間と隔絶された軍隊の中で、世界の状勢がどのように急変しているかもわからず、泥沼のように果てしない中国戦線でひたすら命令のまま戦い、はいずりまわっていた希望のない日に、突如として起こった大戦の幕開けは万雷のとどろく如く、緊張にふるえたものであった。と同時に内地に生還する望みもこれで断ち切られたというあきらめの心も交錯した」

1937年(昭和12)の日中戦争開戦から4年。米英との開戦から、のちにこの戦争は「太平洋戦争」と呼ばれる。

外地で開戦の一報を受けた兵士達の心境を知るうえで、貴重な記録である。

伊藤さんは2012年(平成24)、88歳で他界した。

息子の戦死を信じなかった祖母

 

 

当時、御坊商工社会研究部は日高地方の空襲の聞き取り調査を行っていた。顧問でのちに校長を務めた故中村隆一郎さん=御坊市塩屋町北塩屋=は退職後も調査を続け、「和歌山県の空襲 非都市への爆撃」(東方出版)等3冊の著書を遺して2011年、奇しくも終戦記念日の8月15日に74歳で他界した。妻の久江さんは「今も8月には多くの方からお電話を頂きます。孫娘が通う耐久高校では今年、夫の著書を読んで感想文を書く平和学習が行われたそうです。少しでもお役に立てているなら夫も本望と思います」と話している。

「平和を考える会」の小田憲(あきら)さん(68)=由良町畑=も社会研究部顧問で、一緒に聞き取り調査を行った。「その活動を踏まえ、『教職員の戦争体験も記録しなければ』と編集されたのが『軍靴の響き』でした」。執筆者の多くが鬼籍に入っており、健在の3人から体験記の掲載許可を得た。

酒井絹永さん(80)=御坊市藤田町藤井=は「政ちゃんは逝った」と題し、出征した伯父の帰りを待ち続けた祖母の思い出を綴る。

「昭和二十年八月十五日―終戦の日。国民学校一年生だった私の目に、痛く映ったものは祖母の号泣する姿だった。一人息子(私の母の兄)を戦地に送り、『日本が勝てば、あの子は必ず帰ってくる』と、ひとり心に決めていたからである。(略)日頃の気丈な祖母に似合わないほどの悲しみようだった。それからの毎日は『蔭膳』を欠かさず、『おがみ屋さん』へ参り続けた。『息子さんは生きている』と言ってもらいたい一心で、あちこちへ出かけていくのだった。『ど、もういっぺんいってくら』と、遠い道のりもいとわず歩いて行く祖母に、私は幾度となくついていった。道々『政(マー)ちゃん』こと政雄伯父のことをきかされた。(略)紀伊御坊駅の改札口で一度ふり返ったが黙礼をしただけで急いで臨港に乗った。そしてデッキに立ったまま手を挙げた。車輌が動き出したとき、ハンカチを取り出して大きく振ってくれた。(略)『あの子さえ、生きて帰ってきたら、いつ死んでもええ』ひとりごとのような繰りごとは、長い、長い、ほんとうに長い間、続いたのだったが。ついに戦死の公報が届いた。それでも祖母は息子の死を信じようとしなかった。(略)人の命をいやおうなく奪ってしまった戦争を、私は憎む。再びこんなことがあってはならない。無念の涙を祖母と共にかみしめた幼い日の私も、やはり戦争体験者なのである」。

寺井恒雄さん(84)=御坊市湯川町富安=は、戦時中の「衣・食・住」を紹介。

「衣…靴は配給でなかなかありつけず、草履を手作りした。服は紺地の布団地を直して着用、モンペとなった。白い服は敵機から狙われると着用を許されなかった。食…塩不足で、元脇まで行って海水を煮つめて作った。ヘビースモーカーの父はネバリツツジの葉を陰干しにしてすった。川柳の新芽をお茶のかわりにつんだ。住…照明弾に反射し標的にされないよう、白カベは墨で真っ黒に塗りたくった。灯火管制下で、電球は尻だけ光るようになっていてジャバラのカバーをかけた。雨戸のふし穴も黒い紙をはった。空襲警報発令とメガホンでふれてくると同時にB29が飛行機雲を引いて北上した。ダイヤや金を供出した。終戦三日前、アカ(銅)の洗面器や真鍮の火鉢を隠していると密告されて班長宅へ持っていった」。

古田雅計さん(88)=美浜町和田=は、「少年はほぞをかんだ」と題して、終戦までを回想。

「正午に重大放送があるから全国民、聴くようにとの通達にて、耳を傾けるが、漠として分からず、漸く寂寥とした晩夏の太陽が西に沈む頃、神州不滅を信じた軍国の少年も敗戦を知る。昨日まで諄々と皇国史観を説かれた先生も、一夜明ければ民主主義の旗振りになられていた。『くたばれ、くたばれ、皆んなくたばれ』『疑え、疑え、全てを疑え』屈折した思いを胸に、少年はゆっくりと、ほぞをかみながら歩き始めた。まさに一つの時代が始まろうとする、曙の空に名残の月が浮かんでいた」

戦争体験は同僚同士でも気軽に話せる話題ではなく、形にするには何らかのきっかけが必要だ。小田さんは「生徒たちの活動が契機となり、貴い体験が書き残されたのは幸いでした。私自身にとっても、その後の教職生活への糧ともなった重要な仕事です。体験集を読み返し、平和の重さをかみしめるためにも経験は語り継がれるべきと実感しました」と、残された貴重な一冊を手に話している。

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