終わらざる夏2019④ 小瀬輔造さん

 

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飛行兵志願も母が反対

小瀬輔造さん(89)は1930年(昭和5)1月7日、日高川町の小釜本で、父隆三さん、母松子さんの7人の子どもの4番目、長男として生まれた。家は小さな農家だったが、輔造さんが小学校に入るころには、隆三さんは満州鉄道に勤務するため、家族を残し満州へ渡った。

36年(昭和11)4月、輔造さんは川中尋常小学校に入学。翌年には日中戦争(支那事変)が勃発。学校の玄関には中国大陸の地図が張り出され、日本軍が占領した場所には日の丸のマークが付けられ、子どもたちは日の丸が増えるたびに喜んだ。

41年12月8日、日本軍による真珠湾攻撃で米国との戦争が始まった。学校生活も少しずつ変わっていき、運動場はサツマイモ畑となり、毎月15日には全校児童や村長らが長子神社に集まって武運長久を祈願。校舎は訓練に来た兵隊の宿舎となり、輔造さんらの勉強場所は寺や集会所となった。

村から出兵する人は全校児童で旗を振って見送り、戦死者の遺骨が戻ってきたときにも全員で慰霊式に参加。「戦争に行く人はみな『天皇のために死ねるのは本望』と言っていた。慰霊式でも遺族は悲しんではいけないようで、誰も泣く人はいなかった」と、感情を押し殺して生きなければならなかった戦時下を振り返る。

多くの家で戦死者が出る中、自分の家から誰も出兵していなかったことを気にしていた2番目の姉の好さんが、「従軍看護婦になる」といって家を出た。南京に渡ったが、すぐに腸チフスにかかって亡くなった。「姉の場合は遺骨などは届かず、紙切れ一枚のみだった」と話す。

同校高等科の2年となった43年秋、輔造さんは少年飛行兵を目指し、御坊小学校で行われた試験に挑戦した。飛行兵は人気で、同級生の男子はほとんど参加。国語や数学などの筆記のほか、マットの上を転がるなどの試験があり、輔造さんはこれを通過し、呉の大竹で行われた2次審査へ進んだ。通過したのはほかに、川中の青年隊2人、野口小1人、名田小1人。大竹では椅子に乗ってぐるぐる回されるなどの試験があった。

44年春、輔造さんのもとに合格通知が届き、同時に受けていた師範学校も合格した。母、松子さんは飛行兵には反対。当初はそんな母に「売国奴だ」と反発していた輔造さんだったが、「飛行兵になるより学校の先生になって大和魂を持った兵隊を育てる方が大切」という必死の説得に気持ちが動かされ、師範学校へ進むことを決めた。

戦後わかったことだが、大竹の試験を受けた5人は全員が合格。青年隊の2人は飛行兵に進んだが、鹿児島の鹿屋で終戦まで壕掘りばかりで、飛行機に乗ることはなかったという。

 

炎上する名古屋城にぼうぜん

連合国の反撃で、日本軍が多くの支配地域を失い始めた1944年(昭和19)4月、輔造さんは和歌山市にあった和歌山師範学校に入学したが、秋には学徒動員により、名古屋市北区の神戸製鋼の工場で勤務することになった。

工場では航空機の車輪作りが主な業務で、日々、ジュラルミンを切って溶かし、車輪の型に流し込む作業に明け暮れ、空襲警報が鳴ったら防空壕に隠れるという毎日を過ごした。

名古屋では45年3月、5月に計3回の大きな空襲があった。3月12日にはB29が300機、19日には230機、5月14日には440機が名古屋の市街地を襲った。このほかの空襲も含め数千人の死者と多くの負傷者を出し、家屋も焼失した。

空襲警報が鳴り響くたびに隠れていた壕は、細長い溝に屋根をつくり、土をかぶせていた。頭を打たないように腰をかがめなければならず、狭く身動きがとりにくい。空襲警報が鳴り響く中も、早く外に出たいと思う人が多かった。名古屋空襲の日もそんな気持ちで避難していたが、ある程度、爆撃が止むとほとんどが外へ飛び出した。壕から出た輔造さんが見たのは一面火の海となった名古屋の街。あちこちで赤い炎が立ち上り、体に熱風が吹きつけた。そのとき、ひときわ大きな炎が目に入った。3回目の空襲で炎上する名古屋城だった。真っ赤な火柱を立てながら激しく燃える姿を、輔造さんらはただぼうぜんと眺めていた。実際に空襲というものを見たのはこのときが初めてだったが、まだ14歳の輔造さんは、不思議と恐怖心はなかった。

「当時はもう日本から迎撃機が飛ぶこともなく、高射砲の音もしない。アメリカの飛行機は悠々と空を飛び攻撃してきた」と振り返り、艦載機グラマンから2回の機銃攻撃も受けたこともあり、「とっさに避けて助かったが、機銃で誰かが死んだという話はあまり聞かなかった」という。

8月15日、ラジオの玉音放送で国民に終戦が告げられた。幾度の空襲から敗戦の気配を感じてはいたが、どこかでまだ勝利を願っていた輔造さんは仲間とともに悔しがった。

戦後、師範学校に戻り勉学に励み、船着中の教師として勤務。以後、40年間教師を務め、早蘇中の校長を最後に退職した。戦争体験を振り返り、「戦争が終わって思ったのは『やっと終わった』という感じで、電球に付けていた(灯火管制の)黒いカバーが外れたときは、周りが明るくなってホッとしました。戦争はもうやってはいけない。いまの平和に感謝したい」としみじみ話している。

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