終わらざる夏2019② 石橋アキヱさん

 

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芋畑で震えた大空襲

 

「看護婦になりたいと思ったのはただ制服姿への憧れだったんですが、いざ看護学校へ行くと決めたときは、兵隊さんと一緒に戦場へ行くことも覚悟のうえでした。子どもながらに、あの時代の男の子と同じように、御国のためにという思いがありました」というアキヱさん(90)。1928年(昭和3)9月28日、美浜町浜ノ瀬で海運業を営む保田新太郎さんとトヨノさんの三女として生まれた。きょうだいは姉が2人と弟が1人、妹が4人の8人。新太郎さんは三晃丸という船で、砂利や木材を大阪へ運んでいた。アキヱさんは松原尋常高等小学校を卒業し、43年4月、現在の御坊小学校のところにあった御坊高等家政女学校へ進んだ。

入学からすぐ、学校の生徒は全員、御坊市島にあった軍需工場、石川島航空工業日高工場へ動員された。学業よりも国家の軍事力増強が優先され、アキヱさんは毎日、自宅から工場へ出勤。旋盤工として「自分が何を作っているのか分からない」まま、戦闘機の部品を製造、会計の仕事もした。

戦況は悪化の一途、全国で米軍の空襲が激しさを増すなか、20年4月、和歌山市小松原通の和歌山赤十字病院(現日本赤十字社和歌山医療センター)の甲種救護看護婦養成所(2年制)に入学した。国のために役に立ちたいという強い思いを持って選んだ道だったが、16歳のアキヱさんはすぐに心が折れそうになった。2年生の先輩が3人、1年生が2人の5人一部屋の学生寮は、凄まじい上下関係に支配されていた。

夜の点呼では廊下に1年生が整列し、右から左へ順に名前と番号をいわなければならないが、目の前の先輩に気圧され、緊張のあまりつい言い間違えてしまう。さすがに殴られるようなことはなかったが、失敗するたび別室に呼び出され、厳しく叱責された。また、学校や寮の廊下で先輩とすれ違う際も、あいさつを忘れたりお辞儀の角度が浅かったりすると、「欠礼!」といわれ、呼び出しを受けた。「部屋でも食堂でもお風呂でも気が休まることがなく、私はいつも入り口の方で小さくなっていました。憧れの制服を着ても気持ちはいつも沈んでいました」。

そんなつらい寮生活が4カ月目に入った7月9日深夜から10日未明にかけて、和歌山市内がB29の大編隊による爆撃を受けた。いわゆる和歌山大空襲。米軍の記録では、午後11時36分から午前2時30分まで約3時間に、B29108機が800㌧以上の焼夷弾を投下し、市内の建物密集地の52・5%を破壊した。死者1101人、負傷者4438人、全焼家屋2万7402戸の被害が出た。

和歌山城から南へ約500㍍ほどの病院と寮も全焼。アキヱさんは空襲のさなか、防空頭巾をかぶり、着の身着のまま、避難する人々のあとについて走った。見知らぬ人たちと身を寄せ合い、闇を切り裂く閃光、地響きのような爆発音に震えながら恐怖の一夜を過ごした。夜が明けて気づくと、そこは芋畑で、病院から南西へ3㌔あまり離れた水軒の浜(西浜)の近くだった。「どこをどう逃げたのかまったく覚えていません。とにかく人の流れについて逃げました。あのとき、逃げる方向を間違えていたら命はなかったでしょうね」と振り返る。

アキヱさんが病院へ戻ると、4階建ての別館以外は寮も含めてすべて焼けてなくなっていたが、学生は全員が逃げて無事だった。焼け出された他の学生や看護婦は海南市の温山荘へ避難するよう命じられ、その後学生は全員、自宅へ戻った。

 

戦後は舞鶴引揚援護局へ

 

 

1945年(昭和20)7月9日の和歌山大空襲で和歌山市内は壊滅的状況となり、病院も寮もなくなった和歌山赤十字病院は機能停止に陥り、アキヱさんら学生はいったん自宅に戻るよう指示を受けた。

大空襲のニュースは新聞等を通じて県内各地に伝わり、日高地方でも「日赤は看護婦が折り重なって死んでたらしい」という間違った情報が広がった。美浜町の家族は心配になり、アキヱさんの3つ上の長女が和歌山まで安否を確かめに行くことになった。御坊駅で切符を買って汽車を待っていると、反対のホームに到着した汽車から荷物を抱えたアキヱさんが下りてきた。「アキヱ!」「お姉ちゃん!」。思いがけない駅での再会に、姉妹は抱き合って喜んだ。

8月15日の終戦は浜ノ瀬の自宅で迎えた。しばらくして学校再開の連絡があり、アキヱさんは再び和歌山市へ戻った。病院近くの赤十字社県支部(日赤会館)を学生寮として、支部の講堂で授業が再開され、11月には焼け残った別館で診療もスタートした。47年3月、養成所を卒業したアキヱさんは晴れて看護婦の免許を受け、日赤からの平時召集で舞鶴の引揚援護局医療班への配属が決まった。

舞鶴は満州、朝鮮半島、シベリアなどから帰ってくる引揚者を受け入れる港として、45年11月に開設され、58年(昭和33)11月の閉鎖まで13年間に延べ426隻の引揚船が入港。66万4531人の引揚者・復員兵と、1万6269人の遺骨を迎え入れ、引揚者全体の7割近い約46万人は旧ソ連領から帰ってきた。

舞鶴の受け入れが始まった当初は、朝鮮半島や中国からの引揚船ばかりだったが、アキヱさんらが任務についたころからは高砂丸、信濃丸などロシア極東のナホトカとの間を往復する船がほとんど。満州などで強制移送され、長期の抑留生活と過酷な労働を強要されたいわゆる「シベリア抑留」からの引揚者で、月に10日ほど、多い日は3隻の船が到着し、1隻あたり約2000人が乗り込んでいた。

アキヱさんは仲がよかった同期と先輩の3人で和歌山から派遣された。港に到着した引揚船から小さな船に乗り換え、桟橋から上陸してくる引揚者の消毒・治療が主な仕事だった。引揚者は上陸後、手荷物検査を受け、裸になってノミやシラミを駆除する粉末の薬品(DDT)を頭からかぶり、医師の診察を受けた。けがをしている人は治療を受け、入院が必要な人は近くの病院に収容されたが、アキヱさんが接した人たちはみんな痩せこけてはいたものの、ほとんどが元気で健康に問題はなかった。

日本人にとって舞鶴は、二葉百合子のヒット曲「岸壁の母」のイメージが強く、アキヱさんも半年ほどの滞在中、何度か肉親を出迎える人の姿を目にした。「私にとって舞鶴は、看護師として仕事をする喜びに満ちた毎日でした。『岸壁の母』で知られる平桟橋には深い思い出があります。もうお名前は忘れてしまいましたが、引揚者の中には御坊の方もおられました」と振り返る。

舞鶴での任務を終えて浜ノ瀬に戻ったあと、49年9月に設立された国保日高病院(現国保日高総合病院)の12人の看護婦の1人に採用された。30歳で結婚し、12年後に待望の長男が誕生。仕事と子育てに奮闘しながら、最後は病院の婦長も務め、85年3月、56歳で早期退職した。

趣味の俳句は、精神神経科病棟時代、当時の医長の発案で患者の治療の一環として取り入れ、夫が指導者となったのが出合いだった。早くわが子がほしいとの願い、子育ての大変さ、突然の病で先立った夫への想いなど、夫も自分も苦しいときは十七文字を詠むことで心がすっと落ち着いた。今年もまた猛暑が続く8月、あの激烈な体験を十七文字で表すことは難しいのか、戦争に関する句は「詠んだことがありませんね」と笑う。

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  1. 基本イメージはこんな感じ

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