小説で歌舞伎の世界堪能
- 2018/6/3
- 日高春秋
毎朝欠かさず読んでいた新聞小説が終わってしまった。朝日新聞連載の吉田修一著「国宝」、全500回。朝が来て新聞を繰ってももう続きは読めないと思うと心に穴があいたようで、「国宝ロス」に陥っている◆長崎のヤクザの組長の息子に生まれた喜久雄少年が数奇な運命を経て、歌舞伎の女方役者となり、やがて人間国宝となるまでを描いた波乱万丈の物語。芸術の高みへ上りつめた喜久雄は至高の存在として人々の心を完全に奪い、まばゆいライトと喝采の中で至福の境地に至る。壮絶な孤独と引き換えに◆歌舞伎は伝統芸能でありながら、様式美にとどまることなく時代の空気を吸収して進化し続けるエンターテイメント。ことし1月に高麗屋が三代同時襲名を行い、話題となった。7月には大阪松竹座で襲名披露の公演も行われる◆12年前、和歌山県民文化会館で九代目松本幸四郎(現白鸚)の「勧進帳」を観た。他の役者でも観たことがある演目だが、この時の弁慶はシャープな動きがまるでロックスターのようにカッコよかった。歌舞伎ファンになって一番のひいきは三代目市川猿之助(現二代目猿翁)だが、他のどの役者にもそれぞれの魅力があり、知れば知るほど深みにはまる◆歌舞伎の魅力は役者の魅力。弁慶、「忠臣蔵」の大星由良之助、女装の悪人弁天小僧菊之助などおなじみの役をその役者がどう演じてくれるか。どう笑わせ、どう泣かせてくれるか。どんな新しい境地を見せてくれるか。舞台は一期一会。舞台上に生きる役の人物は、役者が生き生きと演じるほどに鮮やかな命を持ち、役者の姿とともに観客の心に住み着く◆それは小説作品も同じ。描かれた人物を読者の心の中で永遠に生かす、作家の魔法にかかった幸福な500日だった。(里)