それぞれの戦争を訪ねて②東山 郁さん

予科練時代の厳しい訓練を振り返る東山さん

戦争東山さん.JPG 海軍飛行予科練習生、通称・予科練。昭和4年に制度が設けられ、終戦前の20年6月に凍結(一部除く)されるまで、おもに15歳から20歳までの志願少年が飛行兵になるための教育を受けた。戦争が始まって以降、卒業生は零戦など航空機搭乗員の中核を占め、搭乗員を大量に育成するため、予科練入隊者も大幅に増員。戦況の悪化とともに当初3年だった教育期間はどんどん短縮され、19年に入ると神風特攻隊員として多くの若者が敵艦に突っ込むなどして散華した。御坊市名田町野島、東山郁(たかし)さん(85)も少年志願で解体直前まで予科練を経験した一人である。

 昭和5年10月20日、父与四郎さん、母トミノさんの6人きょうだいの長男として生まれた。開戦時は小学4年生。毎月8日、朝4時に起きて印南町山口の山口八幡神社へ武運長久を祈願しにいったのを覚えている。海軍の軍艦乗りだった父は、開戦直前の16年11月に召集され、戦中も輸送船「あけぼの丸」でニューギニアなど南方への物資輸送に活躍。19年春ごろまでは手紙も届いていたが、それ以降は音信不通となった。出征した父、病気がちだった母に代わって一家を支えたのが郁さん。食べるものはイモばかりだったが、隣近所の人に助けてもらいながら農業に励んだ。


 名田尋常小学校を卒業し、高等小学校に進学していたとき、当時の担任に海軍志願を勧められ、19年春ごろ、数え年14歳のときに徴兵検査を受けた。約2カ月後、2次試験があって見事合格。夏休み中、塩屋小学校へ海軍の兵隊が子どもたちに訓練を指導しに来ていて、郁さんも参加した。当時、戦死した山本五十六連合艦隊司令長官の妻と子どもが塩屋に疎開しており、身を寄せていた家へ遊びにいく機会があった。金箔の勲章や軍刀を見せてもらったのを覚えている。郁さんからしても山本長官は神様のような存在で、「負けないような手柄を立てたい」、幼心にそんな思いが込み上げた。19年11月、呉の大竹海兵団で最終検査を受けて、飛行兵に合格した。名田からは6人が最終検査に臨み、飛行兵に合格したのは郁さんを含め2人だけだった。


 20年正月に赤紙が届き、1月10日、憧れの七つボタンに袖を通し、三重海軍航空隊の分所となっていた奈良県丹波市町(現在の天理市)の天理教の教会へ。全国から1000人余りが集い、飛行機や魚雷、高射砲などの勉強が始まった。真冬でも半袖シャツ1枚で、朝6時に起床のラッパが鳴ると、顔を洗って運動場へ一目散に集合。少しでも遅れると容赦なくビンタが飛んでくる。海軍はすべて連帯責任で、誰か一人でもミスを犯すと全員が罰勅を受ける。「精神注入棒」と呼ばれる六角棒で何度も尻をたたかれた。3月末には「実施部隊へ行く」との命令が下った。行き先は鹿児島県肝属郡串良町(現在は鹿屋市串良町)にある串良海軍航空基地。食糧のパン3個を手に、3日かけてようやく到着した。


 串良海軍航空基地はもともと教育航空隊として開隊されたが、戦争末期には実践部隊に編入された。鹿屋市には戦時中、最も有名な鹿屋のほか串良、笠之原の3つの飛行場があり、特別攻撃の出撃基地として多くの若き予科練生が飛び立った。鹿屋からは908人、串良からは363人が出撃したとされている。郁さんたちの一個中隊約250人は到着して2、3日目の朝、全員が滑走路前に集められた。これから特攻に向かう5、6機の零戦を見送った光景はいまでも忘れられない。沖縄方面へ飛び立った部隊は1機も帰ってこなかった。「自分たちも行きたい」、そんな思いがふつふつと湧いてきた。

 串良海軍航空基地は、山を切り開いた台地にあり、周りは杉林に囲まれていた。高い志を持っていても、現実は、訓練で使う飛行機は残っていなかった。串良に着いてからの任務は、飛行場の周りの山から杉の枝を切り出し、格納庫や兵舎を覆って敵機に見つからないよう隠す作業ばかり。串良に着いて1週間もしないうちに、連合軍の圧倒的な兵力を見せつけられることになる。


 特攻機の飛び立つ飛行基地は標的となり、およそ200基の敵機からすさまじい爆撃を受けた。「昼すぎだった。飛行機で空が真っ黒になりました。操縦かんを握る外人の顔がはっきり見えるほど低空飛行で、爆弾が破裂する大きな音や、機銃掃射の弾の薬きょうが雨のように降ってきた」。兵舎や格納庫は木っ端みじん。5、6機あった零戦は爆撃前にかろうじて大分へ避難し、東山さんら予科練生は壕や山の中に隠れ、幸い犠牲者は一人も出なかった。それでも「もうここには居られない」。郁さんらの中隊は隣の高隈村へ移動し、小学校を兵舎にして、壕掘りの毎日が続いた。


 1カ月ほどして今度は宮崎県の海岸に近い日南市南郷村の小学校へ移った。途中、鹿児島から宮崎にかけての志布志湾では、軍艦が魚雷を撃ち込まれたのか、無数の死体が浮いているのを見て、「日本はもう駄目だ」と思ったのを鮮明に覚えている。南郷村では、当時展開していた海軍第33突撃隊「嵐部隊」に編入され、本土決戦に備えて鉄砲の組み立て方や撃ち方、ほふく前進などの訓練と、海岸線の陣地構築の任務に就いた。陣地は「たこつぼ」と呼ばれ、海岸線の山に壕を掘り、13㍉や25㍉機関砲を据える。当時の班長は優しい人で、「東山、もし連合軍が上陸してきたらどうせ勝てないから、山奥へ逃げるぞ。わしについてこい」といってくれたことが記憶に残る。時折、敵機が偵察に飛んでくることがあったが、こちらから弾を撃つことは禁止されていた。「ここに部隊があることを知られれば、何百機も来て全滅させられるからですよ」。作業は大変だったが、危険な目に遭うことなく、村の人も差し入れしてくれるなど親切な人ばかりで、緊張は張り詰めているものの比較的平穏な日々を過ごしていた。そんなある日、生死を分ける出来事があった。


 その日は陣地構築ではなく、兵舎にしていた小学校の入り口で見張り役の歩哨の任務を命じられていた。しんどい作業をしなくて済むのでラッキーと思っていたその時、つま先の3㌢前に砂埃が舞ったと思うと、そのまま運動場に一直線の砂煙が立った。次の瞬間、敵のグラマンが目に入り、自分が機銃掃射で狙われたのだと理解した。背筋が凍る恐怖に思わず手にしていた銃を放って校舎に逃げ込み、命拾いした。「グラマンは上空でエンジンを切って急降下しながら機銃掃射してきたのでしょう。飛んでくる音はしなかったし、後ろが山だったのでまったく気づかなかった。あと数㌢ずれていたら体を貫通して、いまここにはいないでしょう。あの時の恐怖はいまでも忘れられません」と振り返り、「あのあと、銃を捨てて持ち場を離れたので、小隊長に大目玉をくらいました」と笑う。


 終戦も南郷村で迎えた。玉音放送を聞いたが、何を言っているのかよく聞き取れなかった。負けた悔しさはあったが、これで終わったと、安堵の気持ちがこみ上げてきた。兵舎には食糧があったので、2週間ほどとどまったあと、8月末に故郷へ帰るために出発。宮崎県延岡では鉄橋が破壊されていて足止めをくい、広島や大阪の焼け野原に心を痛めながらの帰路だった。天王寺のプラットホームで一夜を明かしたが、目を覚ますと軍服、靴、帽子、荷物はすべて盗られてなくなっていた。9月上旬、故郷へ無事たどり着くことができた。


 父は便りがこなくなったあとも上陸用の舟艇に乗って指揮を執り、インド洋の島へ食糧を運ぶ任務をこなしていた。だが、20年6月20日、スマトラ海峡を3艇で進んでいた時、英軍戦艦とかち合い、父が乗っていた真ん中の舟艇に砲弾が命中。破裂した破片で首が切れて亡くなったと、父の同僚だった人が戦後、知らせに来てくれた。


 戦後、食糧難の時代は本当に苦しかったが、親戚にも助けてもらいながらなんとか乗り切った。あれから71年、「当時は国のために出征するのが当たり前でした。戦争はやるもんじゃない。でも、国は守らなきゃいかん」。15歳という若さで戦中、終戦という激動の時代を体験した郁さんの言葉には、計り知れない重みがある。

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