終わらざる夏2015② 鳥居美喜雄さん

                            呉海軍工廠時代の鳥居さん(前列中央)

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 「本当に精密な兵器。日本軍の技術は優れていましたが、製造する機械の材質が悪く、需要と供給のバランスも悪過ぎた」。御坊市藤田町藤井の鳥居美喜雄さん(90)は、広島県呉市の呉海軍工廠(こうしょう)で戦艦「大和」から放たれる砲弾の部品製造に携っていた。

 鳥居さんは大正13年8月、藤田村藤井(現御坊市藤田町)で雑貨屋を営んでいた父藤本米松、母アサヱの5人目の末っ子として生まれた。早蘇村(現日高川町)平川のアサヱの実家、鳥居家が男の子に恵まれなかったため、2歳で跡取りとして同家の養子となった。養子といっても暮らしは変わらず、藤本家で幼少時代を過ごし、藤田尋常小学校を経て、和田村(美浜町)にあった常磐商業学校に入学。卒業後、戦争の激化に伴い軍需工場での労働者の需要が多くなったことから、16歳だった昭和16年春、呉海軍工廠で働き出した。

 海軍工廠は海軍の船舶、兵器、弾薬などの製造、修理、実験など行う施設。呉の施設は、戦艦大和の建造で有名な海軍船艇建造の中心地で、明治36年に海軍の組織改変で誕生。東洋一と呼ばれるまでに設備が充実。工員数は他の3大工廠の横須賀、佐世保、舞鶴の合計数を超えるほどで、ドイツのクルップと双璧をなす世界の二大兵器工場となった。大和をはじめとする摂津、長門など戦艦、航空母艦、巡洋戦艦など各種艦艇の製造を手がけていた。

 鳥居さんは、これら艦艇から放たれる砲弾の部品を製造。特に信管と薬きょうの製造に追われた。信管は砲弾の爆薬や装薬を爆発させるための起爆装置で、大和の主砲、45口径46㌢三連装砲をはじめ、艦艇の巨砲から放たれる砲弾に使用。砲弾の先端に取り付けられる弾頭信管、底に装着される弾底信管などあり、思い通りのタイミングで砲弾を爆発させる機能を持っていた。海軍工廠の本部施設から西方面、吉浦にある火工部機械場が鳥居さんの職場。出来上がった信管の検査とメッキがけが主な仕事で、検査では出来上がった大中小の3サイズがある信管を、それぞれのゲージに当てはめて規格を確認していく。規格に合わない信管は、鳥居さんが合うように仕上げた。この検査の作業について「ゲージでサイズを確認する仕事をしていましたが、信管のはっきりとした寸法は知りませんでした。スパイなど通じて日本の技術、武器が他国に漏れないようにするためだったと思います」と話す。

 薬きょうの製造でも力を発揮した。鳥居家の18歳上の長男、多喜蔵さんが実家近くで営んでいた精米所にトラックがあったことから、鳥居さんは小さい頃から機械類が大好き。そんな気質が工廠での仕事に合っていた。薬きょうは、銃砲の発射薬を詰める容器で、艦艇の比較的小さい艦砲で利用されたが、仕事は銅板をプレスし加工する作業。銅板に15㌧もの圧力を加える危険極まりない作業だったが、出来るだけ多くの製造を求められ、作業に追われるばかりに手元を誤り、プレスして手を失くしてしまう人も多かった。鳥居さんは、手をはさまないようにプレス機を改良。一日通常7000個仕上げればいいところを、倍の1万4000個も製造することができた。また、使用するプレス機が故障がちなので、ある日、故障の原因を突き止めようと数少ないドイツ製の機械を分解していたところ、上官に見つかり、大目玉をくらった。ただ、この時は上官から、故障の原因は材質の違いにあると教えてもらった。ドイツ製の機械はいい鉄が利用され、日本製のはくず鉄だった。

 呉の海軍工廠には大和をはじめ、多くの艦艇が入ってくる。鳥居さんが戦艦の代表格、大和を見たのは3回ほど。大和が来た時は、近くで見たいあまり、無理に用事をつくっては、吉浦の職場から本部施設へ。ランチと呼ばれる定期船で大和の横を通り、あまりの壮大さに感激したという。 


「需要と供給のバランスが悪過ぎた」と鳥居さん

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 戦況悪化の一途をたどっていた昭和20年、鳥居さんは島根県の古志原(現松江市)にある陸軍第9教育隊に入隊が決まった。入隊を前に一時、藤井に帰郷し、島根への旅立ちで道成寺駅に向かう際、見送りに来てくれた家族や地域住民に「お国のために命を捧げてきます」とあいさつした。これが最期になるかもしれないと、見送りに来てくれた人々の顔、藤井の町並みの象徴、旭化成の煙突を目に焼き付けた。島根に向かう途中、大阪の天満で空襲にあったが、「どこで死ぬのも同じ。車外に出ても死ぬかもしれない」と腹をくくり、汽車の中で空襲が収まるのを待った。

 2月1日、陸軍第9教育隊に入隊。飛行機の電気系統設備について学んだ。電線の配線やつなぎ方、バッテリーの仕組みにはじまり、爆弾の投下装置などの教育を受け、5月に新潟県高田の部隊を経て、長野県の1万9169部隊整備隊に配属された。拠点は今井村(現松本市)にある小学校。飛行機の整備が仕事だが、戦況が芳しくなく、飛行機自体が少なく仕事はない。男の人は兵となり、女性と子どもだけになった周辺の村に農業を手伝いにいくことも。そんな日々を過ごしていた8月15日。運動場に置かれたラジオで玉音放送を聞いた。「やっぱり負けた…」。

 5日ほど経った頃、1機の米軍機が何度も偵察にやって来た。小学校に残っていた爆撃機8機のプロペラを外して降伏をアピールしてみせたが、「みんなで突撃するか」という声が上がり、鳥居さんも決意。3~5人ずつ班編成し、飛行機に乗り込んで突撃する準備を進めたが、上官に止められた。

 8月25日、藤井に戻った。家族らみんなが喜んでくれたが、「島根に向かう前に『お国のために命を捧げてきます』とあいさつし、亡くなった人もおられるのだから帰りにくかった」と振り返る。

 戦後、大和紡績、日通の勤務など経て、県職員となった。海軍工廠での経験から「戦後の日本の躍進。自動車製造などから日本の技術は超一流、世界一なんです。戦争当時も卓越した技術を持っていたはず。ただ、海軍工廠のプレス機を見ても分かるように、さまざまなもので材質が劣っていた」と語る。製造に携っていた砲弾の部品生産だが、「ポンポン砲」と呼ばれたQF2ポンド海軍砲の場合、1分間に何百発もの砲弾が必要だ。1人一日薬きょうを7000個、鳥居さんがその倍を作っても砲弾の数は到底足りない。「砲弾を作っても作っても、需要に追いつくはずがない。バランスが悪過ぎた」。

 若かりし頃、砲弾の部品製造に携った大和の本を手に「どんな理由で戦争が起こったか分からないが、やらなければならないようになってしまったのだろう。戦時中は、みんな命の尊さに対する感覚が違っていた」と振り返り、「いまのこんな平和な時代は本当に幸せ。ことしで戦後70年。この平和がずっとずっと続くことを心から願っています」と話している。

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