大東亜戦争末期の昭和20年6月22日、米軍機の爆撃により多くの住民らが亡くなった美浜町の浜ノ瀬区で5月30日、二十数年ぶりに慰霊祭が行われる。当時の松原村には戦闘機のアルミ部品を作っていた軍需工場もあり、そこで働いていた学徒動員の生徒らのほか、浜ノ瀬の地引き網の漁師ら計51人が爆死。70年後のことし、この日高地方で最も凄惨な空襲を振り返り、犠牲者に鎮魂の祈りをささげる。
昭和20年6月22日の空襲は御坊町名屋や松原村の軍需工場がB29の標的となり、御坊町では死者21人、負傷者60人。松原村では浜ノ瀬の地引き網の網小屋に集まっていた漁師ら34人、吉原の日本アルミ工場(現ダイワボウプログレス㈱和歌山工場)で働いていた動員学徒ら17人が犠牲となり、村全体で23人が負傷した。
浜ノ瀬の網小屋は現在の住民会館そばにあり、美浜町史などによると、午前7時ごろ、空襲警報で住民や動員学徒らが多数、松林内へ避難していたところ、B29の編隊が飛来。それを追ってきた日本の戦闘機が一機を撃墜、襲われたB29は海へ落下し、その様子を見ていた住民がバンザイをして喜んだ瞬間、あとから飛んできたB29の爆弾が松林でさく裂したという。
現浜ノ瀬区長の寄住敏和さん(78)は当時8歳で、空襲のときは爆弾が落ちた場所から300㍍ほどしか離れていない自宅近くの防空壕へ避難。「あのときは家の近くの外にいまして、空襲警報を聞いて壕へ逃げ込んだ瞬間、ものすごい爆発音がしました。外に出たら爆風で吹き飛んだ鉄の塊なんかがいっぱい落ちてまして、私も壕に逃げなかったら死んでたかもしれません」という。
二十数年ぶりとなる慰霊祭は5月30日午後2時から。昭和46年に建立された住民会館横の被爆者慰霊塔の前で行う。