終わらざる夏2013⑦ 狙われた小軍都 由良 ㊦

20130815戦争海防艦2.jpg「海防艦はそのあたりで炎上、沈没しました」 糸谷の畑山造船前の波止場で阪元さん
 海防艦は主に沿岸警備や船団護衛に用いられ、大東亜戦争(太平洋戦争)では戦況の変化に伴い、対潜・対空性能と量産性を重視した海防艦の建造が進められた。昭和17年(1942)7月の定義見直し以降、旧式の択捉型や日辰型(甲型)は第一線を退き、より小型化・簡略化を追求した丙型・丁型が海防艦として実戦配備された。糸谷の戦闘で沈没した第30号海防艦は当時最新の丁型(二号型)で、19年6月、三菱長崎造船所で建造され、沖縄、九州方面で敵の艦載機や潜水艦と交戦し、潜水艦3隻を撃沈、艦載機8機を撃墜。20年5月1日付で大阪警備府海面防備部隊に配属されて由良へ回航、紀伊水道の防衛に当たっていた。
 7月28日、第30号海防艦は高さ263㍍の重山に隠れるように、糸谷海岸(現在の畑山造船㈱付近)に船尾を向けて警戒停泊していた。すぐ近くに住む阪元昭良さん(78)は当時10歳。日米開戦後、徴用運搬船の軍属機関士だった船乗りの父はその年の3月にフィリピン沖で戦死していたが、やんちゃざかりの少年はいつも明るく、海防艦の乗組員とも仲よくなって、艦に遊びに行くようになり、この日も戦闘が始まる直前まで艦の中にいた。
 「警報がないときは乗組員も陸に上がって、糸谷の店で食事をしたり酒を飲んだりしていました。あの人たちにとって、子どもの私は、ふるさとに残してきた家族を思い出させたのでしょうか。『ボク、おいで』『船に乗せてやろう』といって、こっそり海防艦に乗せてくれました。とにかく見るものすべてが面白く、何をやっても怒られませんでしたから、もしかしたら艦長室にも勝手に入ったかもしれません」。
 甲板には45口径12㌢高角砲、25㍉3連装機銃、三式迫撃砲などが据えられ、地下には高角砲の砲弾が出てくるベルトコンベアや爆雷があった。
 「艦の中では大きな真鍮の砲弾を見せてもらいましたし、グルグル回転する高角砲や機銃の台にも座らせてもらって、撃つ真似をして遊んだのを覚えています。国民はみんな食べ物がなかった時代でしたが、帰りには『ボク、また明日もこいよ』といって、いつもお菓子やようかんが入った袋をみやげに持たせてくれました」と振り返る。
 28日朝、海防艦の甲板を遊園地のように走り回っていた阪元さんは、「ボク、もうすぐものすごい戦争が始まるから、家に帰ろう」といわれ、ボートで岸まで送ってもらった。それから30分もしないうちに、グラマンとの壮絶な戦いが始まった。「とにかく子どもでしたから、不思議と怖いという感覚はまったくありませんでした」。阪元さんは壕に逃げず、海岸のコンクリートの壁(現在の糸谷集会所付近)に隠れていた。艦橋が吹き飛んだ海防艦は火災を起こし、グラマンは編隊による爆撃と機銃掃射を繰り返していたが、その合間を縫って、海防艦に積んでいた爆雷の誘爆を避けるため、糸谷の住民も爆雷の揚陸作業、負傷者の救護を手伝った。
20130815戦争日記.jpg戦争末期、空襲で避難の毎日も、欠かさずつけられている平井さんの日記
 戦闘は昼までに終わったが、海防艦の火災は深夜まで続いた。艦内に残っている爆雷が爆発する恐れもあったため、近くの住民は避難するよう指示があり、神谷や吹井、江ノ駒方面、さらに内原村まで逃げた人もいた。阪元さんの家族は由良駅前の親類宅に身を寄せ、翌朝、阪元さんは大八車を先頭に、軍のトラックなどが続く行列を見た。大八車にはスコップやトンガが積まれており、トラックの荷台には海防艦の乗組員の遺体が載せられているのはすぐに分かった。遺体は興国寺に仮埋葬された。
 小学生だった阪元さんだけでなく、紀伊防備隊や海防艦の乗組員と親交のあった住民は多い。ゆえに、グラマンとの死闘のさなかも、住民たちは敵の攻撃の合間を縫って艦まで水を運び、負傷者の救護に命がけで協力した。阪元さんの親類で、当時、糸谷の畑山造船で経理の仕事をしていた元白崎村議会議員平井直勝さんは、大正時代から昭和の戦後まで、一日も欠かさず日記をつけていた。
 長女恵美子さん(87)の家の物置から見つかった何十冊もの日記。昭和20年の日記の表紙の裏には「気ゆるみたる時 神風隊の事を思ひ出して 涙と共に働け 何事も辛抱するは前途の光明」と記されている。一日ごとの書き込みは短く、淡々とした文章ではあるが、戦火に怯える家族を守りながら、国のため、ふるさとのために一日一日を必死に生き抜いた日本人の日常と思いが浮かび上がる。
 海防艦の戦闘から3日後の31日には、「新たに数人の死体が見つかり、爆風で壊れた本家のスバル(屋根の端)を修理しようと思うが、日中は(敵機来襲があるので)危なくてできない。夕食後、家族が船津へ行きたいというので、支度をして家族4人で午後11時に出発した」とある。平井さんは妻と当時20歳だった恵美子さん、生まれてまもない恵美子さんの長男を連れて親類のいる船津村(現日高川町船津)まで歩いて避難した。翌日の日記には「妻や子は歩くのが遅く、孫は腹が痛いといって泣きだし、鐘巻あたりで道に迷ったりしながら、とうとう夜が明けてしまった。恵美子らを怒りつつも、かわいそうだと思う。船津には8時ごろに着いた」と書かれている。恵美子さんはこのことについて、「途中の国道のトンネルには大勢の人が避難していました。なんとか船津までたどり着きましたが、何かと不便な山の中で、食事はまだこっち(糸谷)の方がよかったし、3日もしないうちに耐えきれなくなって、1人で糸谷へ戻る予定だった父に『死ぬならみんなで一緒に死にたい』といって、また家族そろって糸谷へ戻りました」と振り返る。
 糸谷は静かな風待ちの港で、夜になれば飲食店は漁船や貨物船の船乗りたちでにぎわった。終戦の少し前までは遊郭も数軒あり、酔っ払い同士の喧嘩や事故で命を落とし、供養する親族や縁者がいない無縁仏が重山の裾野に多く埋葬されている。そんな土地柄からか、住民は信仰心あつい人が多いといわれ、阪元さんはいまも時間を見つけては、戦死した海防艦乗組員と不慮の死を遂げた無縁仏の供養のため、紀伊防備隊鎮魂碑と海防艦戦死者供養塔をボランティアで清掃、お参りを続けている。
 戦後は苦しかった家計を支えるため、中学卒業の翌日から土木作業の仕事に就き、米の販売、東亜燃料(現東燃ゼネラル石油)の下請作業などを経て、トラック運送業を立ち上げた。事業は順調だったが、病気をしたのを機に廃業。その後は御坊市内で鮮魚店を経営し、新鮮な由良の魚が人気を集めた。
 「学のない私は裸一貫、真面目さだけが取りえで、いろんな仕事をやってきました。供養塔では無縁さんや観音さん、家でも毎日朝夕、先祖とお世話になった海防艦の乗組員に手を合わせ、送り念仏を唱えさせていただいてます。二度とあんな戦争が起きない平和な毎日が続くよう、お願いしています」。毎年7月28日、糸谷の供養塔で行われていた海防艦犠牲者の慰霊式典は、戦後50年の平成7年を最後に行われていない。
(おわり)
 この連載は玉井圭、片山善男、小森昌宏、山城一聖が担当しました。

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