終わらざる夏2013⑤ 五島勉さん

20130811戦争五島2.jpg予科練の象徴「7つボタン」の制服姿の五島さん
 昭和4年12月、日本海軍は、高等小学校卒業者で満14歳以上20歳未満を対象に、航空兵を養成する予科練習生制度を制定。11年12月には「飛行予科練習生」に改称。16年12月の大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時は航空機搭乗員の中核を占めるなどさらに重要性が増し、全国各地に養成部隊が配置された。
 五島さんは昭和2年12月17日、印南町古井で農業を営む長次郎さんの二男として生まれた。切目川村(現印南町)尋常小学校、同高等科を経てみなべ町埴田にあった紀南農業学校へ進んだ。3年生のころ担当教諭から予科練に志願するよう打診があった。「いずれ兵隊になるならエリートコースで花形の飛行兵になって大空に出たい」と以前から憧れを持っていた五島さんは、迷わず甲種飛行予科練習生に志願。予科練には甲種と乙種があり、甲種の方が待遇がよく進級速度も早かった。筆記や面接など2回の試験をパスし、19年8月、三重県海軍航空隊の第15期生として入隊。約2カ月間、外地に出た兵隊から講義を受けたり、マット体操や筋力トレーニングで体力作りをする新人教育を受け、10月に滋賀海軍航空隊宝塚分遣隊に配属された。
 宝塚分遣隊は一挙に増加した予科練生徒を教育するために新設された予科練教育航空隊で、戦時統制の中で活動自粛・閉鎖に追い込まれた宝塚歌劇団の本拠地宝塚大劇場を借り受け、教育・訓練を実施していた。「宝塚では主にモールス、手旗、発光等の信号訓練に明け暮れた。特にモールスでは朝から晩まで食事以外はひたすら耳にレシーバーをつけ、上官から送られる信号を速記しながら解読し、電鍵をたたき信号を送った。意地悪な上官は『ナミタカシ』と送るのを『ナミヒクシ』として引っ掛けてくることもあった」と振り返る。飛行兵には操縦からモールス信号の解読、送信までを1人でこなす高度な技術が求められる戦闘機乗りと、複数が乗りそれぞれ操縦や信号解読など役割を分担する偵察機乗りがあり、試験によって分類される。試験は屋内に作られた疑似飛行機の操縦かんを握り、上下左右に機体を振り回されたあと、いかに早く決められた的に照準を合わせることができるかを判定。この試験で不合格となれば偵察機乗りに回されるが、五島さんは見事合格することができた。
 宝塚での訓練は生半可なものではなかった。「一番つらかったのは『海軍精神注入棒』と呼ばれる角ばったバットで、尻をたたかれる罰。集合に遅れたり門限を守らなかったりすると罰を与えられるが、連帯責任なので真面目にしていても何度もたたかれた。たたかれたあとは尻が痛くて風呂に入るのもひと苦労だった。中には背骨を折った奴もいた」と話す。また、朝から晩まで続く訓練や罰に精神のバランスを崩し、脱走を企て憲兵に捕まったり、自殺未遂をする兵もいたという。これらの厳しい訓練や試験を乗り越え、戦闘機乗りに一歩近づいた五島さんだったが、皮肉にも次に配属されたのは高知県の地上部隊だった。
20130811戦争五島.jpg空に出られなかった悔しさを話す五島さん
 開戦当初は航空機搭乗員の中核を占めた海軍飛行予科練習生も、終戦の1年前の19年夏以降は飛行練習教育が停滞。予科練を修了しても航空機に乗れない者が多かった。飛行機や歩兵不足から基地や防空壕の建設などに従事させられたり、人間魚雷回天、水上特攻艇震洋、人間機雷伏竜など、航空機以外の特攻兵器にも回された。
 五島さんや同期の三重航空隊15期生も例外ではなかった。宝塚分遣隊のあと、高知浦戸航空隊に配属されたものの、すぐに空襲が始まり、山間部に退避。さらに土佐湾への敵艦隊の上陸が想定され、五島さんらは最前線で戦う地上部隊「神竜特攻隊」として編成された。「操縦や信号などの厳しい訓練に耐えてきたのに、まったく関係のない地上部隊になってしまった。『大空で死のう』と約束していた仲間たちと悔しがったが、命令に背くわけにもいかなかった」。地上部隊で担当したのは対戦車速射砲の2番射手。速射砲は10人程度の構成員で運用し、一番射手が照準を定め、二番射手が弾を装てん。三、四番などは弾の運搬などを行った。「弾を拳で押し込むので、手がぼろぼろになった。また、砲撃時は薬きょうとともに炎が上がり、砲身の後ろで待機する一、二番射手はみんな眉毛が焼けてなくなった」という。
 浦戸湾には燃料を積んだ大型タンカーも多く、敵機から狙われていた。連日、沖合の空母からアメリカ海軍の艦上戦闘機F6F(通称ヘルキャット)が数機編成で飛来。小型爆弾で施設や船を攻撃し、人に対しては機銃攻撃を仕掛けてきた。五島さんらは山に穴を掘り潜んでいた。「山から見ていると敵の飛行機が目の前を優雅に飛んでいるんですよ。こっちは戦車砲に弾を装てんし、一番射手も『照準を合わせた』といつでも撃ち落とせる状態だったが、上官から『場所が見つかるから撃つな』と命令されるので、撃てなかった。目の前の湾は火の海にされているのに、あれほど悔しい思いはなかった」と振り返る。その後、何度も空襲はあったが、結局、敵の上陸はないまま、8月15日を迎えた。「隊長から皆に敗戦が伝えられた。戦況が悪いとは聞いていたが、ひたすら必勝を信じ、大空で死のうと誓い合った戦友とともに帽子を地面にたたきつけて残念がりました。精神をたたき込まれた若者たちの哀れな姿でした」と話す。
 敗戦後、残務整理などで1カ月ほど滞在した後、和歌山に帰り復員した。田辺海兵団に所属していた兄進さんも、F6Fの猛爆に遭いながらも無事帰還していた。その後、家業の農業は進さんが継ぎ、五島さんは警察官となったが、5、6年後、進さんが病死。兄の代わりに家業を継ぎ、専業農家として現在に至る。
 勤勉かつ勇敢で、飛行兵として死をも覚悟していた五島さんは、当時の無念の様子を、趣味の短歌でこう詠む。
 『勇ましく 勝って来るぞと 故郷(くに)を出て 手柄も立てず 負け戦』
 「特攻をも覚悟して飛行兵に志願し、訓練に耐えてきたにもかかわらず、飛行機に乗ることさえできず、地上では目の前の敵を撃つこともできなかった」といまでも悔しさをにじませる。現在の日本の状況に「少しなりとも軍歴を持つ私としては、いまの領土問題などをニュースで見るたびに国の対応に歯がゆい思いをしています。ただ、昔ならすでに戦闘の火ぶたが切られているかも知れないと考えると複雑な思い。大戦の犠牲を振り返り、政治外交による平和安泰を祈りたいと思います」と話している。

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