終わらざる夏2013③ 山本勝己さん

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出港前の海兵団時代の山本さん
 「生き延びるのに無我夢中で不思議と痛みは感じませんでした」。日高川町寒川に住む山本勝己さん(90)は、71年前にソロモン諸島で展開された第2次ソロモン海戦で左足を負傷。今も左足には、空母「龍驤(りゅうじょう)」の甲板上で受けた爆弾の破片が、恐ろしい思い出とともに残っている。
 寒川村の材木商の家に生まれた山本さんは、幼いころは内向的でおとなしい少年だった。毎朝、小学校に行くのをぐずり、2つ上の姉、八代子さんの後を泣きながら追いかけて通学したという。外で活発に遊ぶような子どもではなかったが、学力は優秀で常に学年トップクラス。内向的な性格が災いし、難しい問題の解答を分かっていても、同級生の前で手を上げて発表するような積極性はなかった。小学校卒業後は、御坊市名屋の柳瀬木材で丁稚(でっち)奉公。途中、満州にわたり、半年間農地開拓も経験した。
 18歳のとき、「どうせ兵隊にならないかんのなら」と入隊を志願。本来入隊は20歳になってからだが、泣き虫だった幼いころの面影はなく、たくましい若者に成長していた。父節(みさお)さん、母ヤスヱさんも息子の勇気ある決断を喜び、「お国のために頑張ってこい」と力強く背中を押した。昭和17年5月、広島・大竹の海兵団に入隊。海軍を希望したのは、「陸軍なら行軍の際に重い荷物を持たないかん。海軍の移動は船だから」という理由だった。連日、瀬戸内海に浮かぶ島まで数十㌔を泳ぐ厳しい軍事演習。波にのまれて溺れる人もいた。そんな日々が3カ月あまり続いた8月上旬、海兵団を繰り上げで卒業し、南雲忠一中将率いる第3艦隊の空母「龍驤」に整備兵として乗船。15日、ソロモン諸島を目指して広島港を後にした。龍驤は昭和8年の竣工で、海軍4隻目の空母。全長180㍍、最大幅20㍍。大東亜戦争(太平洋戦争)緒戦ではフィリピンやインドネシアへの侵攻を支援し、連合軍の船舶を多数撃沈。インド洋作戦やアリューシャン作戦のダッチハーバー空襲などで活躍していた。
 このころ、日本軍はソロモン諸島の制空権獲得を目標とし、ガダルカナル島に飛行場を建設していた。8月7日、アメリカ軍によるガダルカナル、ツラギ両島の上陸作戦が行われると、日本軍は8日夜にアメリカ軍と交戦(第1次ソロモン海戦)、オーストラリアも含め巡洋艦5隻を沈没させる勝利を収めるが、ガダルカナル、ツラギ両島の早期奪還はとん挫。そこで日本軍は25日までにガダルカナル島奪回を決め、龍驤は新たに編成された第3艦隊の第1航空戦隊に加わり、重巡洋艦「利根」、護衛の駆逐艦「時津風」「天津風」とともにガダルカナル攻撃(第2次ソロモン海戦)に挑むことになった。
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左足には爆撃の負傷の跡が残る
 1087人の乗員とともに日本を後にした山本さんは、入隊したばかりのため整備科の一番下に当たる4等整備兵。零戦、攻撃機など航空機の点検や部品の取り替え、オイルやガソリンの入れ替えなど整備全般が仕事。乗りはじめのころは、龍驤が南へ南へと大海原を進むなか、いつ何時、敵軍機に爆弾を投下され、艦艇からは魚雷を撃ち込まれるかも知れない。頭の上からと足の下からの恐怖で眠れない日々が続いたが、疲れのあまり知らず知らずに眠れるようになっていった。龍驤は敵軍に見つからぬよう迂回、蛇行を繰り返しながらゆっくりと南下。灼熱のガダルカナル島に接近しつつあった24日、運命の日を迎える。
 南雲中将率いる機動部隊本体とは別に、龍驤を中心とした原忠一少将率いる支隊は上陸船団の護衛を担当。龍驤は、午前11時を迎えようとしたころ、ガダルカナル島のアメリカ軍ヘンダーソン飛行場に向けて零戦15機、攻撃6機の21機を発艦。手薄となったその時、不運にもアメリカ軍に発見される。B17爆撃機の空襲は幸い命中しなかったものの、午後1時57分、敵空母「サラトガ」の艦上機38機が一挙に龍驤上空に到達。激しい対空戦闘の幕が切って落とされた。敵機は爆弾を投下し、龍驤は高角砲などで応戦。万雷のごう音がこだまし、深紅の炎と水柱が空高く伸びる大激戦のなか、海面すれすれの低空飛行で接近してきた敵軍機が左舷の高角砲付近を爆撃。甲板上では猛烈に熱い爆風とともに爆弾の破片が飛び散る惨状となった。
 この敵軍機接近に伴い、高角砲の近くにいた山本さんは、反対側の右舷のポケット(整備兵の待避場所)に逃げこもうとしたが、すでに整備兵でいっぱい。やむなく左舷のポケットを目指していたところ、爆弾が甲板にさく裂し、熱風を浴びるとともに栗ぐらいの大きさの弾片が左足に突き刺さった。そのあまりの熱さに骨は砕かれ、血みどろになった左足を引きずりながら何とかポケットに逃げ込んだ。不思議と痛みは感じない。衛生兵が治療に訪れ、足に添える適当な木が見当たらなかったため、鉄パイプで代用された。龍驤は、敵の投下弾を回避するため洋上をのたうち回るが、奮闘むなしく直撃弾2発、有効至近弾7発、航空魚雷1本を被弾。船体にはいくつかの被弾孔が開き、そこから海水が浸入。甲板上ではところどころ火災が起こり、やがて機械系統が停止、大破した龍驤は航行不能となった。幸い、上空の敵機はいなくなったが、大勢の戦死者とひん死の重傷者が続出。船は後方から沈み始める。ゆっくりと船体が傾き、山本さんは、血の海となった甲板上でずり落ちないように踏ん張るものの、血で滑って徐々に後方へ引きずられてしまう。パイプが添えられた左足も重くて体はいうことをきかない。そのとき、無事だった乗員がロープで体を消火栓にくくりつけてくれた。ずり落ちる危機は回避したものの、龍驤は沈み続ける。「だめかも知れない。このまま大海原の藻屑となってしまうのか」とそんな思いが頭をよぎった瞬間、「大丈夫か」という声が聞こえた。時津風の内火艇の乗員によって救出された。龍驤は午後6時ちょうど、ガダルカナル島北方200マイルの地点で、艦首をいったん高く跳ね上げ、副長の貴志久吉中佐以下多くの遺体とともに沈没した。山本さんは爆撃で負傷した際、左舷のポケットに逃げ込んだのが幸い。その後、右舷のポケット近くに爆撃があり、多くの死傷者が出たという。
 山本さんは時津風に移り、握り飯を食べた。2つ目を口にしたとき、激痛が体を襲った。ホッとしたのか、左足の負傷の痛みを感じたのはこのときが初めてだった。その後、輸送艇で2週間かけて横須賀に到着した。数日後、病院で左足を診てもらったところ、あまりの傷のひどさに軍医は足を切断することを勧めるが、「生えてくるものではないので残してほしい」と懇願。患部は治っては化膿を繰り返す状態で、国内の病院を転々。徐々に快方へと向かい、20年8月15日の終戦時には、呉の海軍基地の整備科で事務仕事をしていた。
 戦後、同じ寒川村のフミヱさんと結婚。3人の子ども、7人の孫、3人のひ孫に恵まれ、幸せな日々を過ごしている。ソロモン海戦での負傷によって走ることができず、正座やあぐらもかけないなど日常生活に多少の不便はあるが、「命を落とす人がいるなか、これくらいで済んだのだから本当に良かった」と痛々しい左足の傷跡を見つめる。
 戦後、龍驤沈没間際の危機的状況下で救出してくれた時津風の乗員を探し出し、兵庫県の実家にお礼の電話をかけたところ、戦死していたことが分かった。「私を助けた後、龍驤の沈没に巻き込まれたのかも知れない。いまの私があるのは彼のおかげ。感謝してもしきれない」と声を詰まらせる。一方で、長年にわたり戦争で負傷した人たちの傷痍軍人会・同妻の会で役員を務めた。「戦争なんてやって得なことは何一つない。爆弾を落とされる心配をすることもなく、不自由なくご飯を食べられるこんなに平和で幸せな時代が来るなんて思いもよらなかった」と静かに語った。

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