終わらざる夏2013① 西岡千代吉さん

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昭和18年2月、高槻工兵第4連隊で初年兵近藤班(中列右端が西岡さん)
 昭和20年、大東亜戦争(太平洋戦争)で日本は戦況悪化の一途をたどり、敗北濃厚となっていた。8月に入ると広島、長崎に原子爆弾が投下され、米軍の上陸はもはや時間の問題となっていた。工兵隊として宮崎県の小林で作業に励んでいた日高川町藤野川の西岡千代吉さん(91)は、刻一刻と近づく敵の本土上陸に死を覚悟していた。
 西岡さんは、丹生村(現日高川町)三津ノ川の炭焼き職人、薗田九助の四男として生まれ、近所で農業をしていた伯父熊三郎(父、九助の兄)の家庭で育った。山野尋常高等小学校を卒業後、天王寺の製本工場に勤めていたが、伯父の家で農業の人手が足りなくなり、数カ月で帰郷。17歳のとき、「家庭の事情で振りまわされるのは御免」と京都市内の鉄工所で働き始める。20歳となった17年8月に徴兵検査合格、翌18年2月に鉄工所での経験を買われ、陸軍二等兵として工兵隊となった。
 「最前線に行きたくない」との思いから、比較的安全な鉄道工兵隊を希望したが、配属されたのは満州の第5軍第25師団工兵第25連隊第2中隊。大阪・高槻工兵隊で基礎訓練を受けたあと、3月末に満州に渡り、平陽に駐屯する第25師団に合流した。「鬼の赤柴」と恐れられた第25師団長、赤柴八重蔵中将が馬上から厳しい顔で西岡さんら初年兵約200人を閲兵。「兵は殴って強くする」とゲキが飛び、西岡さんは「殺される」と震え上がった。30㌔以上の荷物を持って1時間に5㌔の行軍など厳しい訓練の毎日。落ち度があると上級兵から容赦なく鉄拳が飛んだ。訓練に耐えられず亡くなる者もいた。「殴られたくない。生きたい」の一心で連日、懸命に訓練に取り組んだ。8月1日、一等兵に昇格した。
 西岡さんが配属された第5軍は満州国南東地域の警備を担当。配下の第25師団は総勢約2万人。そのうち工兵隊は約1000人で、一中隊当たり人員は300人ほどだった。工兵隊の任務は、道路敷設、橋の架設、陣地構築など。西岡さんは「軍人たる者、死んだとき偉くなっていれば、親孝行になる。同期で一番になってやる」と猛勉強。さまざまな演習をこなしながら満州国の南東エリアを転々とする。12月には関東軍下士官候補者隊に入隊し、翌19年2月には上等兵に昇進。五葉台(ゴヨウダイ)、勃利(ボツリ)、斉斉哈爾(チチハル)などを巡り、勃利では凍土の掘り方を身につけ、国境の五葉台では築城に参加し、工兵隊員としてレベルアップした。一番のやりがいは橋の架設。道はなければ回り道をすればいいが、橋はなければ川の向こうへ行くことができない。橋を架ければ、多くの住民が喜んでくれた。ソ満国境付近では、ソ連軍の偵察部隊の兵士5、6人が陣地に迷い込み、ヒヤリとしたこともあった。工兵隊として充実した日々を送っていた昭和20年3日、 25連隊に転用の指令が下った。内地か南方か――。行き先は分からない。まだ雪が深く残り凍てつくような寒さのなか、夏服が支給された。「向かうのは沖縄か? 生きては帰れまいなぁ」。このころ、陸軍伍長となっていた。
20130807戦争西岡.jpg「戦争ほど愚かなものはありません」と西岡さん
 満州をあとにし、韓国・釜山(プサン)へ。沖縄行きのうわさは絶えなかったが、具体的な行き先の指示がないまま滞在。ある日、軍事物資を運んでいた船が釜山の港に入ってきた。長崎、五島列島沖で米軍の空襲に合い、4隻のうち3隻が沈没。命からがら逃げてきたのだという。「戦況悪化。敗北濃厚。沖縄どころではないではないか。たどり着くまでに魚のえさになってしまう」。そんな思いが頭をよぎった。釜山に来て2週間が過ぎたころ、南九州への転用指令が下り、4月8日に釜山を出港。博多に渡り、12日に宮崎の小林に到着した。
 鹿児島の鹿屋と知覧には陸軍特別攻撃隊の出撃基地、国分には海軍航空隊の基地があることから、鹿児島と宮崎の境、志布志湾からの米軍上陸は濃厚。上陸は12月とみられていた。25連隊は第57軍の配下となり、来るべき本土決戦まで残り7カ月あまり、西岡さんは1000人の工兵隊員とともに米軍上陸、本土防衛に備えて小林周辺のエリアで大規模な準備に取りかかった。
 昼夜を問わない作業で、いたるところに弾薬と食料など保管する倉庫を作っていく。陸軍が行き来しやすいように道路を敷設し、川には橋を架設。以前からあった橋は戦車が通れるよう広くしたり、強固にするために橋脚を設置。決戦が予想される場所には陣地を建設した。広大な面積を誇る千谷原という山すその地域では畑を耕し、食料となるイモを栽培。突貫工事のため作業中の事故も相次いだ。ほかの工兵部隊も都城や宮崎、鹿屋など南九州全体で作業を展開、決戦に備えた。西岡さんも寝る間を惜しんで作業に励んだ。
 「沖縄の次は、志布志湾に敵が上陸する。命もここまでか」。日に日に死の覚悟を固めつつあった8月15日、終戦。日本は敗れたが、内心、ほっと胸をなで下ろした。10月中旬、三津ノ川の実家に戻った。両親と3人の妹が出迎えてくれ、生還を涙ながらに喜んだ。8つ上の兄良吉さんも、大陸の長沙付近で負傷したが無事だった。
 戦後、西岡さんは藤野川の西岡菊枝さんと結婚。姓を薗田から西岡に変え、菊枝さんは10年前に亡くなったが、農業をしながら幸せな日々を過ごしている。「入隊するときも、満州に行くときも日本は負けると思っていました。そんなことは口が裂けてもいえませんでしたが」と振り返る。「人間に欲がある限り、戦争はなくならないと思う。北方領土の問題、尖閣諸島や竹島。絶対に弱腰を見せてはいけない。きれいごとでは済まされないが、戦争ほど愚かなものはない。自分のことしか考えていない若者、不甲斐ない政治家を見ていると心配でたまらない。この平和におぼれず、気を引き締めてほしい」と、たくましい日本の明日が来ることを願っている。
 昭和20年8月15日の終戦から68年。憲法改正、集団的自衛権の憲法解釈等が国民的な議論となりつつあるなか、戦争の悲劇を二度と繰り返さないために、日高地方の戦争体験者を訪ねて話を聞いた。

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