終わらざる夏⑤ 髙木實さん

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終戦後、中国で他の整備士らと撮った写真(前列左から2人目が髙木さん)
 元印南町商工会長の髙木實さんは、大正12年1月20日生まれの89歳。母かやさんが同年9月に病気で亡くなったため、田辺市上秋津に住むかやさんの母、橘みよさんに育てられた。 上秋津尋常小学校、同高等科を卒業し、昭和12年4月、おじの山本覚さんが経営する東京本所区(現墨田区)の衣類製造・販売などを手がける会社に勤めることになった。
 日本軍が米英に対し宣戦布告する2日前の16年12月6日、会社に区役所から徴用令が届いた。5日後の11日、立川市の陸軍航空工廠に配属され、当時の主力だった三菱製の戦闘機のエンジン組み立てに従事した。太平洋の島々で日本軍の玉砕が続いていた19年8月、21歳になった髙木さんは徴兵検査に合格し、静岡の第7教育航空隊に配属された。10日間、軍人としての教育を受け、同月、満州に送られた。
 満州では北東に位置する佳木斯(ジャムス)とペヤンで教育を受けたあと、20年2月、奉天(現瀋陽)飛行場の第4練成飛行隊(隊員数約250人)に配属された。奉天周辺では戦闘はなかったが、飛行場は陸軍で最も多く生産された主力戦闘機「一式戦闘機(愛称=隼)」が戦地へ向かう途中の補給所となっており、髙木さんは何機も補給、点検を行い、見送った。
 内地では3月10日の東京大空襲、同14日の大阪大空襲など、米軍による本土焦土化作戦で敗色が日に日に濃くなっていくなか、奉天飛行場に1機の隼が飛来した。本来なら搭載されない大型の爆弾を積み、操縦士の年齢は17、18歳と若い少年兵にもかかわらず位の高い階級章をつけ、頭には日の丸の鉢巻。軍事機密として補給に来る航空機の行き先などは知らされていなかったが、ひと目で特攻隊とわかった。髙木さんが燃料補給を完了すると、少年は翼の上に立って敬礼。髙木さんも敬礼で見送ったあと、すぐに飛び立っていった。作業中は一対一だったが会話はなかった。「体格のいい美少年だった。重い爆弾を積んでいたため、滑走路を走る機体ががたがた揺れ、飛び立つのに時間がかかっていたのが印象的だった。おそらく5、6時間後に沖縄で特攻したのだろう」。その後も特攻隊とみられる戦闘機が何機か補給に来たが、髙木さんが作業をしたのはこの1機だけだった。
 20年8月15日。衛兵の担当日だった髙木さんは、やしの木に設置された高台で周囲を警戒していた。1人の同僚が勢い込んで駆け上がってきて、髙木さんに告げた。「おい、日本が負けたぞ」。「国のために」と教育を受け、日本の勝利を信じていた髙木さんはその場に崩れた。「負けるとは思っていなかった。『こんなところに突っ立って私は何をしているんだ。何の役にも立っていないではないか』と情けなかった」と話す。
 敗戦が決まり、部隊を支配していた階級制度が崩壊。一時混沌となった部隊は、国境を越えて迫り来るソ連軍から逃れるため、中国国内をさまようことになる。
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「日本人も中国人も懐に入れば悪い人などいない」 と髙木さん
 昭和20年8月15日、髙木さんが所属していた第4練成飛行隊(約250人)に敗戦の知らせが入ったあと、部隊には大きな変化があった。戦時中は絶対的存在だった階級制度がなくなり、部隊内の上下関係が崩れた。とたんにこれまで階級を利用して、下級兵をいじめていた上官たちは居場所を失った。「上官の中には意地が悪い人もおり、新兵から金平糖(小さな球状の和菓子)を奪うなど、嫌がらせをしていた。敗戦と同時に部下だった兵士から報復を受けて殺された上官もいたらしいが、危険を察知していつの間にか逃げ出していた上官もいた」と振り返る。
 食料の補給が途絶え、また満州に侵攻してきたソ連軍から逃れるため、部隊は奉天飛行場から移動を始めた。大通りは避けて、山の中をいくつかの馬車を引き連れて歩き、食料は日本に友好的な裕福な農家から買った。そのため飢えなどで死者が出ることはなかったが、途中、根っからの侍かたぎだった1人の将校が、「敵の捕虜になるくらいなら」と拳銃で自殺した。
 部隊は数十日にわたり山中に潜伏したが、 食料などが尽き、中国共産党の中国人民解放軍に投降した。当時、中華民国政府率いる国民革命軍と対立関係にあった共産党軍は、戦備を増強する必要があり、共産党軍幹部の伍修権(ごしゅうけん)らが、部隊に航空隊設立を要請した。共産党軍に協力すれば数年間は帰国できないため、部隊の中で何度も話し合いがもたれたが、最終的に隊長の林弥一郎少佐が、隊員の生活補償と引き換えに受諾。21年1月1日に航空総隊を設立した。「日本人は白米しか食べない、現地での妻帯を許すなど、いくつかの条件を出したようだった。現地の中国人とともに働いたが、日本人として不当な扱いを受けたり差別を受けることはなかった。将校には帯刀も許されていた」という。航空総隊では部隊の隊員が教官となり、中国人に航空技術を指南。パイロットや整備士を養成し、髙木さんはこれまで同様、エンジンの組み立てや点検、補給などを担当した。
 航空総隊ができて約1カ月後の2月3日。共産党軍が占領していた満州国通化省通化市で、中華民国政府の要請に呼応した日本人が蜂起する「通化事件」が発生。髙木さんらも関与したと疑われ監禁されたが、約20日間で釈放された。総隊は3月1日、東北民主連軍航空学校と改称され、国民革命軍と戦う共産党軍「八路軍(はちろぐん)」のパイロットなどを養成。同学校は空軍のない八路軍にとって重要な役割を果たし、共産党軍の勝利に大きく貢献することになる。
 昭和23年、民衆の支持を失い、アメリカ軍からの支援も先細りした国民革命軍は徐々に後退を始めた。その年のある日、髙木さんは戦場から遠く離れた東安の飛行場で航空機の整備をしていた。上空に1機の航空機が飛来した。革命軍に配備されていたアメリカ軍の主力戦闘機P―51(愛称=マスタング)だ。上空を大きく旋回した瞬間、髙木さんめがけて両羽についた機関銃を乱射してきた。あわてた髙木さんは、そばにあった小さな木の下に身を伏せた。人ひとり隠れるのも難しく、機関銃の前では無意味なほど小さな木だったが、間一髪、弾を避けることができた。「あのときは本当にびっくりした。機関銃の弾は私の約30㌢横をバババババッと走っていった。当たれば即死は間違いなく、本当に生きた心地がしなかった」と恐怖を振り返る。P―51は偵察だったようで、その後、再び攻撃してくることはなかった。
 終戦から8年後の28年、髙木さんはようやく帰国した。以前勤めていた東京の会社は連絡がつかず、父勝四郎さんが待つ故郷印南に戻った。その後、いくつかの仕事を経験し、33年に髙木牛乳店を設立。町商工会会長や町文化協会会長、御坊ライオンズクラブ会長などを歴任し、地域に貢献してきた。中国にいたころ、航空機の整備を指導した中国人からは戦後も何度か手紙が届いたほか、平成13年には中国空軍の発展に貢献したとして、感謝状が贈られた。
 「戦争は勝っても負けてもつまらない。もう二度と起こってほしくない。日本人だろうと中国人だろうと、懐に飛び込んだら悪い人などいないことが分かる」と話し、中国の友人から届いた手紙を読みながら、日中友好へ思いをはせる。

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