終わらざる夏① 原安司さん

 高度国防国家の建設、八紘一宇(はっこういちう)、大東亜共栄圏が叫ばれ、急速に戦時色が深まっていった昭和10年代半ば。16年3月、御坊町立御坊商業学校(のちの御坊商工、現紀央館)を卒業した原安司さん(89)は、大阪市内に本社があった繊維関連の会社に就職し、大東亜戦争(太平洋戦争)開戦後は事務方として名古屋支店に勤務していた。18年8月、20歳のときに陸軍の赤紙(臨時召集令状)を受け、兵庫県加古川の歩兵第106連隊に入隊。3カ月前にはアリューシャン列島のアッツ島守備隊が玉砕、日本軍は各地で後退を続けていた。原さんは入隊からまもなく韓国に渡ったあと、いったん広島の呉に戻り、19年7月、海軍が建造した世界最大の戦艦大和に便乗して南方戦線のシンガポールへ送られた。
 全長263㍍、戦艦としては史上最大の排水量(6万4000㌧)、18インチ(46㌢)主砲3基を搭載した大和の雄姿に、原さんは「この軍艦があれば日本も自分も大丈夫。大和が沈むときは日本の国が沈むときだ」と起死回生の勝利を確信。広大な甲板の上で鳥肌が立つほどの興奮を覚え、海軍兵の手前、小躍りしたい気持ちを抑えながら乗り込んだという。すでに制海権、制空権とも失っていたが、7月16日、大和は無事にシンガポール沖のリンガ泊地に到着した。当時、シンガポールはイギリス軍を破った日本陸軍が占領、「昭和の時代に得た南の島」という意味から、「昭南島(しょうなんとう」と呼ばれていた。原さんら歩兵第106連隊はリンガ泊地で大和から輸送船に乗り換え、昭南へ渡り、マレー半島を軍の輸送列車で北上。タイを経てビルマ(現ミャンマー)へ入った。
 ビルマでは開戦直後、日本軍がビルマ独立義勇軍(BIA)と手を結び、17年3月には首都ラングーン(現ヤンゴン)を占領していたが、19年から反攻を開始した米英とのインパール作戦の失敗などにより、戦況は日を追うごとに悪化。商業学校を卒業し、会社で経理の仕事をしていた原さんは、ビルマで下士官となる主計試験に合格。20年、前線を離れ、ラングーンの北の町にある経理学校で研修を受けていたとき、戦況悪化に伴い、シンガポールへの引き揚げ命令が下った。
 ビルマ中央を南北に流れ、「マンダレーへの道」とも呼ばれたイラワジ川(エーヤワディー川)を輸送船で下ってラングーンへ戻る途中、イギリス軍戦闘機の攻撃を受けた。原さんは炊事室へ昼食のお茶をもらいに行くため、甲板を歩いていた。「敵機や!」。頭上には3機、機銃が雨のように降ってくる。なすすべなく身を伏せているうち、船が爆発炎上。「危ない! 飛び込め!」。原さんは仲間とともに決死の覚悟で川へ飛び込んだ。幸い、水深が浅く、けがもなく川岸にたどりつけた。そのまま生き残った仲間とともに、現地人の民家に泊めてもらいながら、ラングーンまで歩いた。「私たち日本の軍人に対し、ビルマの人はとても親切で、食事もお世話になりました」。命からがら、本隊(歩兵第106連隊)と合流したときは、マンダレーの戦闘で多くの仲間が命を落とし、経理学校にいた仲間も7割以上が亡くなっていた。
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戦後は一貫して平和主義。「いまはこの平和な世の中のありがたさを満喫しています」と原さん
 原さんは大正11年10月31日、由良町畑の農業中家栄七(なかや・やしち)と昌子の間に生まれた5人兄弟の二男。1つ上の長男文一(ふみかず)さんは海軍で終戦を上海で迎え、その後、由良へ戻ったが、病気で死亡。三男の祥匡(よしまさ)さんは由良町、五男の保さんは和歌山市でいまも健在だが、四男の栄三(えいぞう)さんは海軍兵として出征、台湾沖を輸送船で移動中、敵の攻撃を受けて戦死した。終戦時、末っ子の保さんは「陸軍幼年学校へ入るかどうかだった」(原さん)が、兄弟5人のうち4人が帝国陸海軍の兵となり、1人が戦死、生きて終戦を迎えた3人もまさに「軍隊は運隊」の九死に一生をくぐり抜けた。
 マラリアに倒れ、イラワジ川で輸送船が敵機の攻撃で炎上したときも、「もうアカン」と死を覚悟した原さん。ラングーンで無事、本隊に合流し、運命の8月15日を迎えた。天皇陛下の終戦の詔書(玉音放送)を聞くことはできなかったが、上官から陛下の聖断を聞かされるまでは、「日本が負けるとは本当に思っていませんでした」。その後、現地のイギリス軍によって武装解除を受け、同軍の監視の下、軍需物資の輸送などの肉体労働をしながら帰国の日を待った。終戦から2年後の22年8月、ようやく帰国できることになり、イギリスの船でビルマからシンガポール、シンガポールからは日本の輸送船に乗り換え、9月に佐世保へ到着。ほぼ3年ぶりに祖国の土を踏むことができた。
 戦時中から終戦後も、日本へ帰るまでは生きることに精いっぱいの毎日。復員し、以前勤めていた会社に復帰したが、「これからの人生をどうしたらいいのか…」と、初めて自分の将来に不安を感じた。そのとき、モラロジー創立者、生涯教育の先駆者として知られる廣池千九郎(ひろいけ・ちくろう)の著書『道徳科学の論文』に出合った。家、国、精神の伝統を尊重し、感謝報恩の心を持って地域社会と国家、世界の平和に尽くすことこそが人の道。このモラロジーとの邂逅(かいこう)が、「平和主義者としての自分の人生を変えた」という。
 その後、御坊の中町2丁目で妻和代さん(85)と酒や日用雑貨を扱う「原米商店」を経営しながら、御坊モラロジー事務所のメンバーとして心の生涯学習の研究、教育実践に努め、子どもが大きくなってからは講演活動等で全国各地を奔走した。幼いころから母が口癖のようにいっていた、「なせば成る、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人のなさぬなりけり」という上杉鷹山の言葉も、モラロジーの説く考えと一致。米寿を過ぎたいまなお、研究を忘れない。
 「終戦の日が近づくと、いまでも戦艦大和やビルマの光景を思い出しますが、いまは平和のありがたさを満喫しています」。昭和の戦争は侵略、自衛、予防、制裁などさまざまに視点・論点が分かれるが、原さんは「自衛のための戦いだったと思います。しかし、いまとなっては、日本人もアメリカ人も、韓国人も中国人も、人として生かされている以上はみんな同じです。日本の若い人たちには、日本人としての誇り、国を思う心を持って、国の伝統を大切にして平和な社会が続くよう努力してほしいと思います」という。
 
 昭和20年8月15日の終戦からことしで67年。あの戦争を体験した人は少なくなり、近い将来、確実にいなくなってしまう。人の幸せ、自由を奪う戦争の悲劇を二度と繰り返さないために、日高地方の戦争体験者を訪ね、それぞれの記憶とともにいまの思いを聞いた。 

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