真珠湾から70年① 野村浚一さん

 昭和16年(1941)6月、ヒトラー率いるナチスドイツは民族生存圏拡大の最大目標であるソ連に対し、300万の兵士を国境に集めて電撃侵攻(バルバロッサ作戦)を開始した。同盟国の日本も東からの対ソ参戦を求められたが、長引く支那事変(日中戦争)で国力を消耗していたために余力はない。日本は同時にアメリカから、日独伊三国同盟からの脱退などを要求され、7月には在米資産の全面凍結令が公布された。続いてイギリス、オランダ、香港も同じく日本の在外資産を凍結。これにより、日本には石油が一滴も入ってこないという状態に陥った。
 「このままではジリ貧」。なんとかアメリカとの関係を修復、危局を打開するため、8月、近衛文麿総理がルーズベルト大統領とのトップ会談を求めたが、アメリカは回答を引き延ばしたあげく拒絶。11月にはハル国務長官から三国同盟脱退、中国からの撤兵、さらに満州国の解体を求める書面が突き付けられた。このいわゆる「ハル・ノート」で日本の国論は一気に開戦へと傾き、「血の一滴」の石油を求め、追い込まれたアジアの鼠(日本)が大国の猫(アメリカ)に噛みつくように、12月8日の真珠湾攻撃で大東亜戦争(太平洋戦争)に突入した。

 御坊市御坊、横町生まれの野村浚一さん(90)は旧制日高中学校を卒業し、北海道の室蘭高等工業学校(現国立室蘭工業大学)の電気科へ進学。昭和17年秋、学徒動員令で翌春の卒業が半年繰り上げられ、10月1日に和歌山歩兵第61聯隊に現役兵として入営した。当時21歳。通称「ロクイチ」と呼ばれた第61聯隊は佐藤源八聯隊長の下、開戦直後、比島コレヒドール攻略に赫々たる戦果を挙げた。野村さんは帰還した古兵に何度も鉄拳を食らいながら半年間の訓練を耐え抜き、甲種幹部候補生試験に合格した。

 18年5月、豊橋陸軍予備士官学校(愛知県)に入校し、12月25日の卒業時、シンガポールの南方総軍(燃料廠)への転属命令を受けた。当時、日本軍はすでに近海の制海権、制空権とも失っており、南方戦線へ向かう輸送船の多くは敵潜水艦の魚雷を受けて轟沈。28日、たった3日間の外泊許可を受けて戻った御坊の実家で、「これが最後の正月になるだろう」と覚悟を決め、おとそを繰り上げて家族そろって祝い膳を囲んだ。30日、日本は真冬ながら夏の軍服に身をかため、輸送船が出る広島に移動。街の写真館で告別式用の写真を撮り、遺髪とともに御坊の実家へ送ってもらった。19年1月19日、雪のちらつく宇品港を出港。護衛艦もなく、玄界灘で船団を組み、魚雷が命中すれば一発で沈む「丸裸」のまま台湾の基隆、高雄、ベトナムのカムラン湾に寄港しながら、約1カ月後の2月15日、奇跡的にもシンガポールへ無事到着した。そこは内地とは別世界、食料も豊富でのんびりとした南の島だった。
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昭和21年6月、製油所保守要員として現地に残った野村中尉(前列右から2人目)ら

 南方燃料廠はシンガポールに本部、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシアのスマトラ島、ジャワ島などに製油所があり、野村さんはオランダの植民地石油会社、NKPMが開発した北スマトラの燃料廠に送られた。戦前は未開地勤務社員のため、プールやテニスコート、ダンスホールなど最高の福利厚生施設が整備されていたが、開戦時の日本軍の侵攻を受け、オランダ軍は撤退する前に各地の工場や油田を破壊。野村さんがメダン郊外のブランダン製油所に着任した昭和19年3月には、帝国石油などから徴用された日本人軍属技術者により製油施設は復旧、重油や航空揮発油を生産していたが、内地や戦線への輸送は海路を絶たれていたため、ほとんど送ることはできなかった。

 北スマトラ燃料廠に軍人はあまりおらず、部隊本部のほかは総務課、経理課、地質課など、実態は軍隊というより石油会社。従業員の主力は石油関係の軍属とオランダ植民地時代からの現地人で構成され、野村さんは製油所内にある補給課電気工場(ディーゼル発電所)で、発電と送電、電話線の保守管理などにあたっていた。宿舎は元オランダ人従業員の社宅。電気、ガス、水道はもちろん、バス、水洗トイレ、温水シャワーを完備し、食堂にはガス冷蔵庫もあった。「宿舎には現地語でジョンゴス(男性)、バブー(女性)という住み込みの家事担当者がいて、車は1人に1台、オランダ人が乗っていたクライスラーやビュックなど当時最新のアメリカの車が与えられ、当時の日本の家庭ではありえない優雅な毎日でした」と振り返る。
 結局、戦闘行為はもちろん、銃声ひとつ聞くこともなく、北スマトラ燃料廠で仕事をしながら終戦。その後、保守管理要員として連合軍に現地残留を命じられ、最悪、戦犯として裁判にかけられる可能性もあったが、進駐してきた英・印軍からはなんら拘束を受けることはなかった。帰還部隊が残していった膨大な軍需物資、食料、トラックや乗用車もそのまま使用を許され、工場の業務以外は自由に外出、買い物もできた。1年後、インドネシア政府に製油所や油田設備を引き渡し、米軍のリバティー船(大型輸送船)で宇品へ帰ってきた。
 士官学校卒業時、仲間の主力は和歌山、大阪、長野、金沢など各出身原隊に復帰。同期の見習い士官は喜んで内地勤務の原隊に戻って行った。しかし、野村さんの原隊である和歌山のロクイチ(歩兵第61聯隊)は終戦前、ビルマ戦線で多くの戦死者を出した。また、転属組のもう1つの航空隊も、末期には多くの仲間が特攻で南の海に散華。あのとき、最も危険と思われた南方総軍へ転属となったことが、結果的には「幸運の始まりだった」。
 5年間の軍隊生活で、死に直面する最悪と思われる命令を受けても、それが最良の結果となる「運」というものを身をもって体験した。「私にとって軍隊とは『運隊』。正直、スマトラへもう一度行けといわれれば、行きたいぐらいの夢物語的生活でしたが、国を守るために死んでいった戦友に申し訳ないという思いもあります」。
 ことしは大東亜戦争終結から66年、真珠湾攻撃から70年目。日高地方に住む体験者や遺族を訪ね、それぞれの「戦争」を聞いた。

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