終わらざる夏2018⑨ 満州の機密を遺した男㊤

大陸進出から満州国建国へ

 大正から昭和初期にかけての1920年代、日本国内は相次ぐ恐慌に襲われた。26年(昭和元)1月、第25代内閣総理大臣となった若槻礼次郎は、昭和金融恐慌のなかで休業に追い込まれた台湾銀行の救済を画策するが、幣原喜重郎外相が進める対中協調外交に国内の資本家や軍部の不満が高まり、枢密院が勅令案を否決したため、内閣は総辞職に追い込まれた。こうした国内の不況を背景に、日本はその打開策とソ連南下阻止の国防上の理由から、豊富な資源と土地が広がる満州(現在の中国東北部)の領有を考え始める。
 当時、中国(中華民国)には陸軍の関東軍が駐屯していた。関東軍とは、日露戦争の勝利により、ロシアの権益を受け継ぐ形で中国から奪取した遼東半島南部の租借地(関東州)の守備隊だったが、内戦の混乱が続く中国で満州を武力で占領しようとする関東軍の板垣征四郎や石原莞爾らの声が大きくなる。軍中央も最終的には武力による領有で一致しながら、まずは親日政権の樹立、次に独立、その後に領有へと段階的な満蒙問題解決方策をまとめ、関東軍と意見が対立するようになる。
 27年(昭和2)4月、第一次若槻内閣の総辞職を受け、元陸軍大臣の田中義一内閣(立憲政友会)が誕生した。田中は自ら外務大臣を兼ね、部下の政務次官には対中干渉論者の森恪(いたる)を据え、それまでの協調外交から一転、対中強硬外交を進め、5月に蒋介石率いる北伐軍(国民革命軍)が山東半島に迫ると、在留邦人保護を名目に3次にわたる山東出兵を実施した。
 政府は奉天軍閥の張作霖と結んで満蒙支配を目論むが、張は北京で北伐軍に連敗。6月、奉天(現在の瀋陽)に戻ろうとした張は列車もろとも爆殺された。主犯は関東軍参謀の河本大作大佐だった。
 結果、田中内閣による積極外交は中国民衆の反日運動を激化させた。関東軍に対しては政府も軍中央も制御不能に陥り、31年(昭和6)9月には南満州鉄道爆破をきっかけとして満州事変が勃発。関東軍が満州全土を占領した。翌年3月1日には関東軍の手によって、清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀を元首とする満州国が建国され、日本政府は9月、斎藤実内閣の下で日満議定書を締結。満州国の独立を承認した。
 このころ、国内では右翼・軍部によるクーデターが続発し、同じく資源や植民地を持たないドイツやイタリアと同様、帝国主義のファシズムが急速に台頭。リットン調査団の報告書により満州国の自主独立が国際社会から否定されると、日本は国連を脱退、孤立を深めていく。
 泥沼の15年戦争への道を突き進んでいくなか、満州の日本帝国大使館員兼関東軍司令部事務嘱託、さらに満州国執政溥儀の通訳として、溥儀と関東軍司令官ら要人の会談に常に立ち会い、満州国草創期の溥儀にかかわる最高機密を「厳秘会見録」としてまとめ、外務省に報告していた男がいた。美浜町和田に生まれ、14歳で御坊市湯川町小松原の旧家の養子となった林出賢次郎である。

至誠の人 「リンチュウ」

 満州国執政(のちに皇帝)溥儀の通訳となり、溥儀と関東軍司令官ら要人の会談のやりとりを記録、密かに日本の外務省に報告していたのは、1970年(昭和45)11月16日、88歳で死去した林出賢次郎氏。1882年(明治15)8月22日、日高郡和田村(現美浜町和田)入山の津村長次郎、テルの次男として生まれ、御坊高等小学校4年生の14歳で同郡湯川村(現御坊市湯川町)小松原の林出精一の養子となった。
 1901年(明治34)3月に和歌山第一中学校(現桐蔭高校)を成績2番で卒業し、担任の勧めもあってさらに進学を志したが養父母の許可を得られず、6月から翌02年1月まで7カ月間、紀三井寺村高等小学校の代用教員を務めた。この間は学校の宿直室に寝起きし、毎日、夜明け前に紀三井寺を参詣。青雲の志を捨てきれなかったが、中学時代の担任から受験を勧められた県費留学生選抜試験に合格し、同年4月、上海に日本の大陸政策の一環として開設された専門学校、東亜同文書院に2期生として入学した。3年間の留学中は一度も帰国せず、夏休みなどは中国各地を旅行して見聞を広め、中国語の修得に全精力を注いだ。
 05年(明治38)4月、東亜同文書院卒業後は従軍通訳官を志したが、学長が外務省の依頼による中露国境地域調査の決死隊員選定に苦慮しているのを知り、賢次郎氏は自ら、最も危険度の高い地域の調査員にしてほしいと志願。結果、外務省の嘱託として採用され、「清国新疆省露清国境伊犁(いり)地方調査」を命じられた。伊犁とは、北京から西へ3000㌔以上、ゴビ砂漠を渡り、天山山脈を越え、現在のカザフスタンとの国境近くにあるまち。名前を「林慕勝」と変え、中国服を着て剃り上げた後頭部に三つ編みの辮髪(べんぱつ)をたれ、漢人とモンゴル人の従者とともに、ラクダと徒歩で7カ月かけて伊犁にたどり着いた。
 伊犁に5カ月、ウルムチに3カ月滞在し、徹底的な国境調査を終えて北京に戻ったのは出発から2年後。その後、正式に外務省の清国駐在通訳生として採用され、同時に外務省に在籍のまま清国の教習になる特例が認められた。休む間もなく、07年(明治40)、今度は清国の官吏としてウルムチに入り、以前、世話になった地方長官王晋卿氏への恩返しとして新疆法政学校と陸軍学校の教員を務め、10年(明治43)まで3年間、王氏から清王朝のしきたり、文化を学び、宮廷言葉を伝授され、大いに薫陶を受けた。
 1932年(昭和7)3月1日、満州国政府が同国の建国を宣言。9日には清朝最後の皇帝、満州族の愛新覚羅溥儀が執政に就任し、さらに約半年後の9月15日には日本が満州国を独立国家として正式に承認するため、新京で日満議定書の調印が行われた。このとき、賢次郎氏は大日本帝国特命全権大使、武藤信義陸軍大将の随員に選ばれ、同時に新京に設置された日本帝国大使館に転任。翌年1月、大使館員兼任で、満州国執政府行走(こうそう)に任命された。行走とは清朝の官名で、宮中に自由に出入りできる身分の高い者に与えられ、つまりは溥儀の秘書兼通訳者ということになる。このとき賢次郎氏は50歳。溥儀より24も年上だったが、急な呼び出しにも常に笑顔で至誠を尽くし、溥儀はそんな賢次郎氏を「林出(リンチュウ)」と呼び、親愛の情を示したという。

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