終わらざる夏2018③ 長岡竹治さん

農作業中、B29が爆撃

農業の傍ら川辺町議会議員も務めた経験があり、ことし7月には高齢者叙勲を受章した日高川町千津川の長岡竹治さん。88歳ながら趣味のゲートボールの練習には欠かさず参加し、健康を保っている。日々、仲間とともに趣味を満喫している長岡さんだが、少年、青年時代は戦争の真っ只中。防空監視隊として働き、来る日も来る日も空を監視し、敵機の襲来を報告。上空を大編隊が飛び交うなか、住民の命を守るため、逃げ出すことなく命がけで監視業務を務めた。

 

長岡さんは米国との戦争が始まる11年前の1930年(昭和5)5月22日、農業を営んでいた父善吉さんの長男として千津川で生まれた。完全複式だった中津川小学校で6年間学んだあとは、同高等科に進学した。

 

44年(昭和19)11月24日、米軍は新型爆撃機B29で東京を初空襲。高高度を飛行するB29を日本の航空機で迎撃することは難しく、高射砲は一定の成果を挙げることはできたが、数をそろえることができず、B29による本土空襲はこのあとますます激しさを増した。高等科2年生だった長岡さんが住んでいた千津川周辺には、米軍の標的となる建物などはなかったが、数発の爆弾が投下された。

 

その日、長岡さんは学校を休み、家の畑でサツマイモを収穫していた。突然、上空からカラカラカラという大きな音が響いた。驚いて空を見上げると、低い雲を抜けてB29が急降下してきた。次の瞬間、バババババーンと爆音が鳴り響き、長岡さんは大慌てで避難したという。爆弾は長岡さんの畑から1㌔ほど離れた中津川地区の畑に落ちた。爆風や破片が飛んでくることはなかった。爆弾によるけが人などはなかったが、現場を見に行った際、近くにあった家の屋根に大きな穴が開いていた。爆風で飛んできた岩が当たったという。

 

「とにかく音がすごかった。その日は手が届きそうなくらい雲が低かったところを一気に急降下してきたせいか、カラカラという奇妙な音がしたことを覚えています。また、爆弾が落ちたときの大きな爆発音はいまでも忘れられません」と当時の恐怖を振り返る。このころは上空にB29が飛ぶのは珍しかったが、この後は毎日のように目にすることになった。

 

高等科を卒業した長岡さんは、近所に住んでいた防空監視隊本部の上山繁男さんに声をかけられ、御坊市にあった監視哨で監視隊員として働くことになった。

 

 

命がけの防空監視隊

 

 

戦時中、敵の爆撃機等の早期発見のため「防空監視隊」が設置された。隊員は全国各地に設けられた防空監視哨に服務し、敵機を早期発見して各機関に通報するのが主要任務だった。

 

防空監視隊員となった長岡さんは御坊市中町の日高別院近くにあった銀行の屋上に設けられた監視哨に配属された。1つの監視哨では1班6人編成の3つの班で運営される。1つの班が午後6時から24時間担当し、その後、2日間の休みが与えられる。監視任務はさらに6人を3組に分け、1組ごと1時間交代。当番の2人のうち1人は「立哨」と呼ばれる監視役。屋上の監視小屋で双眼鏡を覗きながら常に耳をすませ、敵機のエンジン音を探す。もう1人は「通信」で本部への報告などを行う。「絶えず上空を監視し、かつ音響に注意せよ」と指示を受けていたという。

 

監視は雨の日も真っ暗な真夜中も続く。「敵機を見つけたら『発見、B29 、10機、北上中』などと声を出します。すると通信係が本部へ連絡、本部がさらに上に連絡。しばらくしてラジオで『B29が御坊上空を北上中』と流れてきました」。普段は3組の交代制だが、敵機襲来で警報発令中は6人体制で対応する。「警報時は休む間もなく大変なときもありました。また避難する住民を横目に、我々は逃げることなく監視し続けました」と振り返る。上空に日本の戦闘機の姿はなく、現れるのは常に米軍機。「B29へ高射砲を撃つところを見ましたが、いつも飛行機の後ろで炸裂するんですよ。仲間と『もう少し前で撃ったらいいのに』と話したものです。当時は常に日本が勝つことを信じていましたが、大編隊の敵機を見るたびに不安もありました。ただ負けると思わないようにしていました」。

 

空襲が激しくなるにつれ監視哨は街中から、現在の薗交番の250㍍ほど東の大木に監視台を設置して行うようになった。1945年(昭和20)6月7日、B29が投下した爆弾が監視哨近くの薗の源行寺に着弾した。「爆風で大きな破片が飛んできました。私は慌ててオロオロしていましたが、戦地から帰ってきたナカムラさんという副哨長はとっさに伏せて身を守っていました。破片は川の方へ飛んでいきましたが、さすが戦地に行った人は違うなと感じました」と話す。

 

監視哨で勤務するようになって約4カ月半後の8月15日、終戦を迎えた。玉音放送は近所の井戸さん宅で聞いた。「驚きませんでしたね。心のどこかで『やっぱりか』という思いがあったと思います」。翌日、いつものように監視哨へ向かった。途中、塩屋に米兵が上陸したという情報を受け、兵隊が乗ったトラックが塩屋に向かう様子を見たが、情報はデマだったという。監視哨では監視業務はもう必要なく、解散を言い渡された。

 

上空を埋め尽くす敵機の下も、逃げることなく、監視と報告を続けた日々を振り返り、「監視の任務は国民の命を守ることにつながります。自分の命を捨ててでも人の命を守るという強い気迫で任務に就いていました。しかし、もう戦争のようなばかげたことはするもんじゃない。平和が一番です」としみじみ話している。

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