戦争末期 軍が煙樹ケ浜に飛行場整備を計画

 昭和の対米戦争末期、日本は米軍の本土上陸に備えて各地の太平洋岸にトーチカ(コンクリートで固められた砲座跡)や塹壕の建設を進め、美浜町の煙樹ケ浜などには2つの不時着用飛行場の整備が計画され、陸軍が現地調査を行っていたことが、日高平和委員会の調査で分かった。
 日高平和委員会は、憲法改正反対の立場から反戦、平和のための活動を行っている市民団体。30日夜、御坊市の日高教育会館で戦争末期に造られたトーチカや横穴の壕、兵士が移動する塹壕の跡などの調査報告会を開き、飛行場整備のための現地調査についても説明した。
 飛行場整備は、陸軍第15方面軍が傘下の第144師団(歩兵第416連隊)と独立混成第123旅団司令部に命じ、1945年5月に現地調査が実施された。日高平和委員会は2年前、紀央館高校(旧日高工業)の歴史を調べるなかで、東京の防衛研究所戦史研究センターに飛行場整備計画に関する資料があることを知り、メンバーが出向いてデータを手に入れた。
 それによると、軍は大阪、神戸、奈良を防衛するため、大阪府南部と紀伊半島(和歌山県)を南岸防衛地帯と位置づけ、美浜町和田の入山の西側に南北の小型飛行場、浜ノ瀬の煙樹ケ浜沿いに東西の飛行場の建設を計画。調査の結果、いずれも地積(面積)は十分あるものの、入山の方は「水田地帯で不時着が難しく、小型機のみの着陸用とするにも膨大な土が必要になる」。一方の煙樹ケ浜は「海岸の砂地で、小型機の不時着には適しているが相当な危険がある」と判断され、この2カ所以外に防風林(松林)の北側が秘匿飛行場を設定するに適しているとの意見も付け加えられている。
 参加者は「これ(資料)をみれば、和歌山県は大阪を守る防波堤とされていたことがよく分かる。終戦がもっと遅れていれば、私たちのこの日高地方も沖縄のような悲惨な戦場となっていたはず」と話していた。
 報告会ではこのほか、九条を守り、生かす御坊・日高連絡会代表の谷口幸男さんが御坊の塩屋小学校の沿革史について報告。1943~45年の記述に黒塗り箇所が多くあり、戦後、校長の判断でB29の爆撃による兵士死傷等の記述がカットされたのだろうと説明した。

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