それぞれの戦争を訪ねて② 御坊市の浜田英雄さん

 大正11年2月11日、弥三郎さんとイクエさんの長男として御坊市名田町野島に生まれた浜田英雄さん(95)。召集後、満州で満蒙開拓団の子どもたちの先生役を務め、内地に戻ってからも九州での陣地構築、弟の戦死を経験するなど、激動の時代を駆け抜けた生き証人の一人である。
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 南方ではし烈を極めたガダルカナル島の闘いが本格的に始まったころ、昭和17年8月10日、御坊小学校で徴兵検査を受け、甲種合格。「とにかく早く兵隊になりたかったので、合格したときは本当にうれしかった。家に帰る途中、会う人会う人に『合格したで』と言ったのを覚えています」と、きのうのことのように振り返る。年が明け18年2月1日、大阪信太山の陸軍山砲871部隊に入隊。馬部隊で2カ月間、人より大事といわれた馬の手入れの仕方をみっちりたたき込まれ、3月末には満州の林口(りんこう)へと移動となり、極寒の地で1年余りの新兵訓練に明け暮れた。鉄拳制裁は当たり前の世界、夜になると先輩兵にしょっちゅうやられた。新兵が入隊してくると、今度は鉄拳を加える側にもなるが、「叩くのは嫌い」だった浜田さんは口で説教するばかりで、仲間からは「しゃべってやんと、殴ってあっさりせえと言われた」と笑う。
 80人の同期の中で、成績1、2番の優秀者は次の新兵の教育係、3番と4番は通信や観察係。5、6、7番の3人は満蒙開拓団で同じ林口に来ていた少年の教育係が与えられた。7番目だった浜田さんは、部隊から2つ目の駅の近くで生活することになった新潟県の開拓団の教育が新しい任務となった。16歳前後の少年160人の面倒をみることになったが、「満州はいい所と聞いて来たけど、こんなところなんて嫌だ。帰りたい」と泣く者ばかり。痩せた土地で鍬と鎌しかない過酷な農業と、慣れない集団生活に不安が募るばかりの子どもたちを何とか落ち着かせようと悪戦苦闘の毎日。「喧嘩せずみんな仲良く助け合って生活せなあかん。逃げても食べるものがないから、ここにいてなよ」と諭した。
 3カ月ほどすると少しずつ慣れ、盆には広場にやぐらを組んでうたって踊った。11月ごろになると土地が凍る極寒の地。そんな厳しい環境も乗り越えた。1年間の予定だったが、任務満了3カ月前の20年3月、部隊に戻るよう命令があり、「必ず戻ってくるから待っててくれよ」と約束していったん開拓団を離れた。部隊に戻って「あと3カ月行かせて下さい」と要望したが、「行動をともにせよ」の一言で、結局戻ることは叶わなかった。ただ、このたった一言の命令で浜田さんは命を拾った。
 子どもたちの姿が忘れられず、終戦後、新潟県庁に問い合わせて聞いた話では、満州へ渡った160人のうちどうしても慣れなかった60人は、当時新潟県から派遣され、子どもたちの世話をしていた中山正信さんに連れられて新潟に引き揚げた。現地では浜田さんら教育係がいなくなり、さらに食べるものも底をついたことから、体が大きく力の強い10人が牡丹江へ食糧をもらいに出た。そのさなかの8月9日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄。10人は林口に戻れず、満州に攻め込んだソ連の飛行機の銃撃をかいくぐりながら朝鮮半島まで逃げ、命からがら日本に帰還したという。ただ、残された90人はシベリア抑留の記録もなく、どこへ行ったかは分からずじまい。「満州はソ連兵が攻め込んできてひどいことをしたらしいから、おそらく生きてはいないでしょう。私もそのまま残っていれば命はなかったはず」。戦争のむごさは終戦後も身にしみた。
 昭和20年3月、東京大空襲や大阪大空襲など大都市は次々、焦土と化した。戦況は悪化の一途をたどり、日本軍は来るべき本土決戦に備え、本土防衛のために多くの兵力を費やした。浜田さんたちは林口から貨車に乗り、4日かけて釜山港にたどり着き、おんぼろの貨物船に乗り込んだ。行き先は誰にも分からない。船内では「(支給される服が)半袖やったら南方か沖縄行きや」「長袖なら北海道か」とさまざまなうわさが飛び、二度と故郷に帰れないと覚悟した。島が近づき、港に入って下船すると、目に入るのは日本人ばかり。「ひょっとしたら日本ちゃうか」、にわかに喜びが湧いた。到着したのは九州博多。浜田さんらの部隊は博多から鹿児島を目指し、敵機に見つからないよう明るいうちは山などに隠れて夜に動いた。鹿児島から沖縄へ行く予定だったが、出航できる船は1隻もなく、4月初旬には宮崎県小林市へ。陣地構築のため10人一組になって山の中で穴を掘ったが、崩れて生き埋めになって死んだ仲間もいた。当時、連合軍の飛行機からたくさんの紙が降ってきた。「伝染病がついているから、手で触るな」と命令されていて、竹で紙をひっくり返すと「日本の兵隊さんへ。お父さんお母さんが待っています。戦争をやめましょう」などと日本語で書かれていたのをはっきりと覚えている。
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 終戦も宮崎で迎えた。近くの民家の女性が「日本負けた。戦争終わって、飛行機も飛んでこない」と教えられた。部隊では「日本は神風があるから必ず勝つけど、いまは休戦や」といわれた。その後は残務処理のため2カ月余り宮崎に残り、10月16日に軍用列車で帰路についた。御坊についたのは20日ごろ。南海バスを降り、家につくと母親が「よー帰ってきたなあ」と喜んでくれたが、悲しい報告も受けた。少年志願で海軍に配属されていた弟の照男さんが由良湾に停泊していた海防艦で米機の爆撃を受けて戦死していた。
 母親から聞いた話では、照男さんは亡くなる10日前、外泊で野島の実家に帰ってきた。翌日戻るときは天田橋まで見送りに出て、姿が見えなくなるまで手を振ったという。これが母と照男さんの最後の別れとなった。
 照男さんは当時、大日本帝国海軍の第30号海防艦に乗船していた。7月28日、米軍艦載機との激闘の末に炎上、沈没し、楠見直俊艦長以下、照男さんを含む乗組員99人が戦死した。知らせを受けた母は由良に駆け付けたが、遺体が積まれた倉庫の前に歩哨が立っていて、「顔を見せられる状態ではない」と会わせてもらえなかった。石灰をかけられた50体近くの遺体が大八車で興国寺の下に運ばれ、土をかけて埋められた。火葬は煙が出て機銃の的になるため、土葬されたという。「もう一度顔が見たい」という母の願いはかなわず、傍らに線香を立ててやるしかなかった。
 10月に英雄さんが復員すると、照男さんへの思いが募った母が「遺骨を掘り出そう」といい、親戚の人たちと4人で再び興国寺へ。40人以上が同じ場所に埋められ、墓標がすき間なく建っていて照男さんだけを掘り出すのは不可能な状態。住職が来て「遺骨は全部一緒に掘り起こし、白木の箱に入れて渡しますので、きょうはお帰り下さい」といわれ断念した。結局、遺骨が戻ってきたのは21年4月25日。田辺市の海蔵寺で合同慰霊祭が行われたあと、白木の箱に入った照男さんのお骨を受け取った。
 「弟は280日ぶりに家族が待つ仏壇にようやく安置されました。弟は子どものころから走るのが速くて、運動会ではいつも一番でした。あいつが亡くなるとは。わずか20歳。いつも気丈で私たちには厳しかった母でしたが、あのときばかりはずっと泣いていました。『夕飯食べやんかい』と声をかけても、仏前から離れることはありませんでした」。
 28歳でミサヨさんと結婚。農業に精を出した。86歳のとき、名田小学校の子どもたちに戦争時の話をしたこともある。戦争を知らない子どもたちには「平和が一番。ただ、物を大切にする気持ちをもっと持ってほしい」。食べるものも少なかった時代を振り返り、静かに話した。

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