終わらざる夏2014④ 日下 善右衞門さん

「一面が火の海だった」と日下さん

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 大正15年5月14日、日下善右衞門さんは明治30年から続く木炭問屋「日下木炭店」に4人兄弟の長男として生まれた。長男でありながらも、戦時中、花形と呼ばれた工業系の技術者を目指すようにとの父の教えもあり、印南小学校卒業後、日高中学校へ進学。5年間勉学に励んだあと、現在の徳島大学工学部の前身、徳島工業専門学校へ進んだ。

  昭和18年、日本はアジア・太平洋地域に及ぶ広大な戦線の維持と戦況悪化による戦死者の増加を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系学生の徴兵を始めた。いわゆる学徒出陣。理工系の学生は、兵器開発など、戦争継続に不可欠として徴兵が猶予され、日下さんも19年4月の入学から1年間は同校で専門的知識の習得に励んだ。しかし、南方では日本軍玉砕が続き、アメリカ軍の新型爆撃機B―29による本土攻撃が激しさを増してきた20年の正月、同校の学生にも動員命令が下り、日下さんや同級生らは4月、堺市の軍需工場で働くこととなった。
 
 工場では機関銃の薬きょうを作る業務を命じられ、毎日作業に励み、夜は工場から約5㌔離れた仁徳天皇陵古墳近くにあった宿舎に泊まる日々を送った。工場での勤務を始めて約3カ月後となる7月4日、徳島市などは「B―29」501機の空襲を受け、市内の約62%が焦土と化し、徳島工業専門学校も校舎設備の大半を焼失した。さらに6日後の7月10日夜。アメリカ軍は和歌山への大規模空襲を開始(和歌山大空襲)。高度約3100~3500㍍から和歌山市内上空に侵入し、和歌山市駅、ぶらくり丁、和歌山県庁舎付近、和歌山市役所付近などに焼夷弾や油脂弾を落とし、中心部はほぼ壊滅状態になった。約50㌔離れた堺市からも南の空が真っ赤に染まる様子が確認され、日下さんは地元印南町や和歌山市にいる姉のことなどを心配したが、堺市が攻撃を受けるという意識はあまりなく、宿舎仲間らとともに就寝した。
  しかし、その数時間後、日下さんは鳴り響くサイレンと慌てる宿舎仲間の声で目が覚めた。外に飛び出すと市街地一面が火の海。爆撃音と燃え上がる炎、一帯を煙が埋め尽くし、見慣れた街並みは悲惨な姿に変わっていた。その光景に驚きながらも仲間ら20人とともに防空壕に避難。幸い宿舎は市街地から離れていたため爆撃を逃れることができた。
  「戦時中とはいえ、それまで戦争を目の当たりにしていなかったので実感はなかったのですが、すぐ目の前に広がる火の海に恐怖がこみ上げてきました。煙などでよく見えませんでしたが、焼夷弾が降り注ぐなか、ただただ手を合わすことしかできなかった」。
 この空襲は第6回大阪大空襲、一般に「堺大空襲」と呼ばれ、堺市中心部に約1万3000発の爆弾が落とされ、2842人が死傷した。
日下木炭店の七福丸(昭和17年撮影)

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 戦争は明治30年から続く「日下木炭店」にも大きな影響を及ぼした。日下木炭店では、真妻や南部川村などで生産された木炭を機帆船で大阪へ運搬する業務を行っていた。昭和13年には3代目となる木造の機帆船「七福丸」が進水。全長約30㍍で3人乗り。45~50㌧の木炭を運ぶことができ、重油を燃料に印南から大阪までを8、9時間で運搬する能力を持っていた。

  戦争が始まり、海上でも機雷や航空機による機銃掃射などへの警戒が高まり、運航を見合わせるなど業務に支障が出ていたなか、昭和19年、父友吉さんに徴用令が下り、七福丸も軍への提供を命じられた。しばらくして友吉さんは多くの近隣住民に見送られ、七福丸の舵を握り、呉へ向かった。船と人手を失い、日下木炭店の操業は不可能となった。
  友吉さんは七福丸の操縦士として徴用。呉で機関銃の取り付けなど簡単な改造を受けたあと、インドネシアへ向かった。外洋向けの船でないため、何度も寄港しながら進み、インドネシアにつくまでかなりの日数がかかったと言われている。しかし、当時の東南アジアの戦況は各地で玉砕が続くなど芳しくなく、友吉さんが操縦する七福丸もインドネシアのジャワ島周辺で連合国航空機による機銃掃射を受け、乗組員らは沈没を確認することもできず、泳いでジャワ島まで避難した。友吉さんは20年8月の終戦から1カ月後に手紙を実家へ送り、翌21年8月に印南町に戻った。
  善右衞門さんは堺大空襲のあと、印南町へ戻り、盆で参りに行っていた寺で終戦の知らせを聞いた。「堺市が燃える様子などを見て戦況は悪いと感じていたが、まさか負けるとは思わなかった」と当時を振り返る。学校は20年10月から再開し、22年3月に卒業した。
  日下木炭店に帰ってきた父友吉さんは、終戦後の疲労から当時流行していた「腸チフス」を患い、一時隔離され、回復後も足に後遺症が残った。善右衞門さんは卒業後の進路に迷ったが、「明治から続く家業を自分の代で終わらせるわけにはいかない」と印南へ帰省。以前の船での運搬から木炭トラックを使った陸輸にシフトすることで操業を再開させ、現在に至っている。
  当時を振り返り「父が無事に帰ってきてくれてよかった。七福丸は島と島との運搬船として使われる予定だったと思いますが、いまごろはジャワ島周辺の海に沈んでいるのでしょう」と話し、戦火が激しくなる前に撮影した父や弟が乗った七福丸の写真を眺める。堺大空襲、父と七福丸の徴用など、当時を思い返し、「戦争は二度と起こってほしくないが、戦争で亡くなった方たちがいるからいまの日本がある。国のことを思う心は必要だと思います」と話している。

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