終わらざる夏2013④ 桒野眞弓さん

20130810戦争くわ野2.jpg本町商店街を勇ましく行進する日中生(「目で見る御坊・日高の100年」より)
 昭和16年12月8日の真珠湾攻撃から快進撃を続けた日本軍は、翌年6月5日から7日にかけてのミッドウェー海戦で赤城、加賀、飛龍、蒼龍の主力航空母艦4隻が沈没(自沈含む)、艦載機など航空機約289機を喪失。この大敗北によって戦争の主導権を失った。その後も12月8日にニューギニア島バサプラの日本軍が全滅、18年2月には西太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島の戦いに2万人以上の死者・行方不明者を出して敗北、撤退(大本営はこれを国民には「転進」と発表)するなど、前線は後退を続けた。
 国力が目に見えて疲弊してきた18年6月、東条内閣は、深刻な労働力不足を補うため、中等学校以上の生徒や学生を軍需産業や食料生産などに動員する「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定。19年3月には「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」で、学徒全員の工場配置が閣議決定され、全国の学生・生徒は学業よりも労働を優先、軍需工場にかり出された。
 富国強兵を掲げ、列強の先進国に追いつき追い越せと近代化を推し進め、中国との戦いに足を引きずりながら超大国アメリカに挑んだ建国以来、初の国家総力戦。学徒動員は男子だけでなく、女学生も挺身隊として生産活動に動員された。
 「花もつぼみの若桜 五尺の生命ひっさげて 国の大事に殉ずるは 我ら学徒の面目ぞ ああ紅の血は燃ゆる…」。ラジオからは聖戦大勝を叫ぶ大本営の発表の合間、勇ましくも悲しい学徒動員の歌が流れていた。
 印南町西神ノ川の桒野眞弓さん(82)は、昭和5年1月1日、真妻村(現印南町真妻)村会議員を務めていた桒野為一さんの長男として生まれた。地元の小学校を卒業後、軍隊で昇級しやすいようにとの父の教えもあり、日高地方唯一の高等教育機関だった御坊の旧制日高中学校(現日高高校)へ進学。質実剛健の気風に満ちた日中、入学してしばらくは勉学中心の毎日だったが、19年3月、国から「学徒動員」の公布を受け、桒野さんは島の現在の大洋化学の場所にあった戦闘機の部品を製造する石川島航空日高工場へ動員となった。さらに同年9月には、100人以上のクラスメートとともに、横浜市にある石川島の工場に配置転換となった。
 横浜工場は東京湾に面した工業地帯にあり、当時の海軍の主力戦闘機零戦のエンジンを製造しており、桒野さんはプロペラ部分のシャフトを担当。グラインダーを使って金属を削り、何機分ものシャフトを作った。「失敗すれば始末書を書かされるので、作業は慎重に行いました。朝番、夜番の2交代で休みもほとんどありませんでした。宿舎は古い旅館で6畳ほどの広さの部屋に5、6人が雑魚寝。いま思えばすでに日本の敗色が濃くなっていたころですが、私たち勤労動員の生徒たちは戦局のことなど何も知らされず、当然、日本が勝つのだと信じて部品を作り続けていました」と振り返る。
20130810戦争くわ野.jpg横浜で働いていた当時を振り返る桒野さん
 昭和18年9月30日、守勢に立たされた日本は本土防衛と戦争継続のため、必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた「絶対国防圏」を御前会議で決定。しかし、ソロモン諸島の戦いや19年6月のマリアナ沖海戦、サイパンの戦いで敗戦を重ね、絶対国防圏に穴が開き、本土へのB29による爆撃は日常的に行われるようになり、桒野さんが働く横浜の工場でも空襲警報が鳴り響いた。
 「工場では約1000人が働いていましたが、警報が鳴ると工場の機械をいったん止めて、山肌に掘ってある防空壕に逃げ込みました。警報はほとんど毎日のように鳴っていたので、防空壕では『またか』などと話すこともありましたが、私は機械が無事かどうか心配で、壕の中でも気が気でなかったのを覚えています。また、息を潜めていると遠くで『パンパン』と対空高射砲を撃つ音が聞こえましたが、1万㍍上空を飛ぶというB29には届いてはなさそうでした」と話す。
 20年5月29日、横浜ではB29爆撃機517機、P51戦闘機101機の大編成部隊による焼夷弾無差別爆撃(横浜大空襲)が行われた。この大都市の住宅地も巻き込んだ非人道的な空爆により、一日だけで死者は約8000人から1万人。桒野さんらはこの月の中旬までに和歌山へ戻り、間一髪、難を逃れることができたが、「もう少し帰るのが遅くなっていたらと思うと、いまでも背筋がゾッとします。あの大空襲で自分たちが働いていた工場がどうなったのかは分かりません」という。
 和歌山に帰ってからは学校が休校しており、自宅待機を命じられ、西神ノ川の自宅で待機。そのまま8月15日を迎えた。「玉音放送は近所のラジオを持っている家で聞きました。雑音が多く、内容はよく分かりませんでしたが、周りの人の反応からどうやら日本は負けたらしいということが分かりました」と話す。その後、再開した学校に通い、日中卒業後は進学も企業への就職もせず、家業の農業を継いだ。
 三菱内燃機製造(現三菱重工業)の堀越二郎が軍の命を受けて設計、完成させ、日本の緒戦の快進撃に大きく貢献した零戦。終戦から68年目のことしはその堀越の半生を描いたジブリの映画『風立ちぬ』が大ヒット、秋には百田尚樹のベストセラー『永遠の0』が映画化されるなど、日本の戦闘機がクローズアップされるなか、日本の勝利のため、搭乗員の武運を祈って、懸命に部品を製造、磨き上げていたのが勤労動員の学生・生徒たちだった。
 桒野さんは当時を振り返り、「横浜の工場で働いているころはみんな育ち盛りでしたので、とにかく毎日『腹へった』『メシが食いたい』ばかりいっていました。食事はあることはあったのですが、小さな茶碗のご飯と魚ぐらいで、とても満足できるものではありません。もちろん、お金もなかったので食べ物を買うこともできませんでした」。また、あのころの生徒は戦争のために朝から晩まで働きっぱなしで、本業の勉強はする時間がなかった。教師と生徒の関係も軍隊のように厳しく、少しでもたるんでいると鉄拳が飛んだ。いまの高校生との違いに時代の流れを感じ、夏の青空のひこうき雲を見上げながら、平和のありがたさが身にしみる。

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