つないだ手にぬくもりが伝わる① すべての子どもに学びの場を

第1話.jpg 昭和47年(1972)2月、グアム島で、27年前に戦争が終わったことを知らず、ジャングルや地下壕で生活していた旧日本陸軍の兵士が島民に発見された。「恥ずかしながら…」帰ってきた祖国は、 高度経済成長も終わりに近づき、 若者はフォークソングに熱狂、子どもたちはドリフターズの加藤茶に笑い転げる平和な国となっていた。しかし、その豊かさの陰で、障害者に対する社会の偏見は根深く、日高地方の福祉行政関係者は 「40年代後半のあのころでも、障害のあるわが子を人目につかぬよう、隠すようにしていた人がいた。言葉は悪いが、まさに座敷牢だった」と振り返る。
 
「どんなに重い障害があっても、 すべての子どもたちに学びの場を」。40年代前半、思いを同じくする保護者や学校の特殊教育にかかわる教員、行政関係者が連日、市の勤労青少年ホームに集まり、養護学校や障害者の作業所の設置について話し合いが続いていた。その輪の中心にいたのは小学校教諭の井上芳朗ら。彼らの熱い思いと活動は地域にも広がり、県内各地で養護学校の設置を求める声が高まるなか、養護学校義務制がスタートする5年前の49年、日高地方に養護学校の設置を求める陳情と請願が県、県議会に対して提出された。
 半年後、県議会がその請願を採択。52年には美浜町和田の国立療養所和歌山病院の一部を県が買収し、53年8月から建設工事が始まった。県教委は翌54年1月、 学校教育課にみはま養護学校開校準備室を設置。3カ月後の開校に向け、 校舎は完成に近づいていた。 県教委は御坊市の塩屋小学校教頭だった井上と、 御坊商工事務職員で野球部の監督を務めていた入江喜一 (現美浜町副町長) を準備室に迎えた。 井上は塩屋小で3カ年事業の校舎改築のさなか、 日高高校時代に選手としてセンバツ出場を果たした入江は、 監督として2度目の甲子園を目指していた。 当時、 52歳の井上は障害児教育の先駆者として、 由良あかつき園の設立にも携わっていたが、 井上よりひと回り年下で子どものころから野球一筋、 社会人となってからも障害児教育とは無縁の入江には寝耳に水の内示。 井上は教務班長、 入江は庶務班長として、 手探りの毎日がスタートした。
  戦後まもなく、 志賀小学校の教員となった井上は、 なりたくてなったわけではない教師のあまりの給料の安さに何度も辞職を願い出たが、 聞き入れてもらえなかった。 しかし、 学校近くにあった浄恩寺 (じょうおんじ) という寺に、 戦争で親を亡くした子どもらを受け入れる共生学園という養護施設があり、 境内の宿泊所で寝起きしながら学校に通ってくる子どもたちと接するうち、 「教育の平等」 を考え始めた。 昭和33年、31歳で、児童数が2000人を超え、 日高地方最大のマンモス校だった御坊小学校に転勤すると、 志賀小の比ではない病気、 貧困、 知的障害などのハンディを持った子どもの多さに目を開かされた。 「この子たちのために」。 特殊学級を担当していた先輩教員に勧められ、 京都教育大で1年間、 障害児教育を専門的に勉強した。 その後、日高地方の教員仲間や地域の障害者、保護者、行政関係者のネットワークが少しずつ拡大。開校準備室では 「財政、 事務方はすべて入江さんにまかせて」、 日高地方の宝でもある松林の松を伐採するにあたっては、 美浜町だけでなく御坊市や川辺町など関係者の理解と協力を取り付けるために奔走。 「学校の先生方、 保護者の皆さん、 病院の医師や看護師さんらすべての人が自分を捨てて一生懸命にやってくれた」。 開校後は第二代校長を定年まで務め、82歳となったいまは日高町志賀 (柏)の実家の酒店で静かに店番をしている。
 一方、井上の補佐役として、学校と県教委 (和歌山市) を往復しながら備品調達や工事の進行管理等に忙殺されていた入江は、 「3カ月後に開校したらまた御坊商工の監督に戻れる」 と考えていたが、 開校後は学校の事務長としてそのまま8年間在籍。 開校しても体育館はなく、 来賓を迎えての式典はストレッチャーが回転できる1階の広い廊下で行い、 放課後は連日夜遅くまで教職員が力を合わせ、塀や渡り廊下、教員用の更衣室と浴室、病院の 「重心 (じゅうしん)」 と呼ばれる重症心身障害児(者)病棟内の教室づくりに追われた。 「とにかく予算がなかった」 ため、学校南側の芝生の庭をつくるときには隣の病院の工事をしていた御坊市内の建設会社、大川組の友人に頼んで重機を無償で貸してもらった。土は由良のあかつき園で工事をしていた陸上自衛隊和歌山駐屯地の隊員に頼んで、由良からの帰りに積んできてもらい、大型特殊の免許を持つ入江が自ら運転して土をならした。みんなが協力を惜しまなかった。そんな日々、重心の子どもらと接しながら、いつしか入江の心から甲子園の夢は消えていた。井上とはいつも5年後、10年後の学校のあり方を思い描き、「この地域の障害児教育の拠点となる学校にしよう」と語り合った。開校5周年記念式典の際、病気で亡くなった子どもたちの合同供養を企画し、御坊市内の花農家の協力を得て菊の花を譲ってもらい、無宗教の献花式を行った。保護者や学校関係者が次々と花をたむけ、手を合わせる姿に、人目をはばからず泣いた。
 
 美浜町和田の県立みはま支援学校がことしで開校30周年を迎えた。 県内唯一の病弱・虚弱の子どもたちが通う養護学校として、 地域の障害児教育の拠点として歩んできた歴史を振り返り、 その独自の取り組みや教育現場の現状から障害児教育のあり方を考える。

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