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終わらざる夏2017⑦ 平和を願い、伝えたい㊦

2017年8月16日

 元海軍中尉の池田武邦さんは静岡県の出身で、昭和15年、神奈川県立湘南中学校を出て16歳で広島県江田島の海軍兵学校へ入校。18年、軽巡洋艦矢矧(やはぎ)の航海士官となり、20年4月7日、戦艦大和などとともに沖縄への海上特攻に出撃した。計10隻の第二艦隊は鹿児島県薩摩半島沖の東シナ海で戦闘となり、池田さんが測的長を務める矢矧は直撃弾12発、魚雷7発を浴びて沈没。池田さんは甲板から海に落ち、弾薬庫と機関が爆発して沈む大和の最期を見届けた。その後も敵機は執拗に機銃の雨を降らせる。助けられるという希望はまったくなかった。「ただ死を待つだけ」の血の海を立ち泳ぎで漂流すること約5時間半、奇跡的に仲間の艦に救出された。

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 21歳で終戦を迎え、東京へ戻った池田さんは焼け野原の都心を見て愕然とした。「これはもう、日本をなんとかしなければと思った」。翌年、東京帝国大(現東京大)工学部に入学し、卒業後は大手設計会社に就職した。国内初の超高層ビル、霞が関ビルの設計チーフを務め、昭和42年には仲間とともに独立。日本設計事務所(現日本設計)を設立し、京王プラザビルや新宿三井ビルなどを手がけ、代表取締役社長、同会長を務めた。


 平成3年、鹿児島県枕崎市の商工会議所が展望台建設事業を決議したあと、1人の男性が鹿児島から東京まで池田さんを訪ねて来た。現在の展望台奉賛会会長、岩田三千生さんの父で、当時の商工会議所の岩田三千年会頭だった。池田さんは三千年さんの熱意にうたれ、展望台建設を応援した。4年後に完成した展望台には3721人の戦死者を追悼する殉難鎮魂之碑、平和を願う女神像などのほか、池田さんが揮毫した「祖国(くに)のため 命さゝげし ともがらの御霊(みたま)安かれと 永久に祈らん」の石碑も設置されている。


 昨年10月、今度は展望台のイメージソングを作りたいと、鹿児島からミュージシャンを名乗る男が訪ねて来た。池田さんは宮井さんに、「シンガーソングライターってどんな仕事だ。食っていけるのかね」と笑っていたが、話が戦争になると表情が一変した。目を閉じて遠い記憶をたどり、「やっぱり一番辛かったのは、友の死だな...」とつぶやいた。625人いた海軍兵学校の同期のうち、マリアナ、レイテ、沖縄の3つの海戦に参加したのはクラスで1人だけ。全体では半分に満たない290人しか生き残らなかった。


 3度目の出撃命令は特攻。「これでようやく自分の死に場所が決まったという思いで、とてもサバサバした気持ちだった」が、期せずして一生を得た。あの日から72年の月日が流れたいまなお、夜になると兵学校の仲間を思い出す。「戦争なんてものは、理不尽そのものなんだよ。どんなにこっちが品行方正でも、戦場に行きゃいきなり殺られちまうんだから」「いまの時代はいいよな。殺されねえんだもの」。冗談のように笑いながらも、死線を越えた人の言葉は重い。戦後は日本の復興のため、信念を貫き通した気骨の人の言葉が宮井さんに響いた。 


 鹿児島へ戻り、ギターを手に曲作りに入ったとき、亡き友を思う池田さんの目線になった。「いまの時代の自分たちは、多くの犠牲のうえに生かされている。だからこそ一生懸命生きなければ」。若い人たちがそう考えるきっかけになればと、池田さんが展望台から海を眺める姿をイメージしながら、平和を願い、言葉を紡いだ。


 大東亜戦争末期、本土防衛の最前線となった鹿児島県には、何カ所もの航空機の特攻出撃基地が造られた。有名な知覧(ちらん)と鹿屋(かのや)のほかにも指宿(いぶすき)、万世(ばんせい)、出水(いずみ)、串良(くしら)、国分(こくぶ)などの基地があり、各飛行場から連日、多くの少年兵が祖国の起死回生を信じ、沖縄の海へ飛び立った。

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 南九州市の知覧特攻基地からは、沖縄戦で出撃した陸軍の全特攻戦死者1036人のうち半数近い439人(徳之島と喜界島の経由を含む)が出撃した。基地近くには軍指定の食堂「富屋」があり、経営者の鳥濱トメさんは隊員たちから「おばちゃん」と呼ばれ、母親のように慕われていた。昭和20年6月5日、その日が二十歳の誕生日だった宮川三郎軍曹は翌日の出撃を命じられ、一緒に出撃する滝本伍長とともに富屋食堂で誕生祝いと出撃のはなむけの料理をいただいた。そのとき、宮川軍曹は「俺、心残りは何にもないけど、死んだらまたおばちゃんのところへ帰ってきたい。明日の晩の9時ごろ、蛍になって帰ってくるから、店の引き戸を少し開けておいてくれよ」といい残し、翌日、宮川軍曹は出撃して戦死。その夜、富屋食堂に一匹の蛍が飛んできたという。この話は高倉健主演の映画「ホタル」でも描かれ、不思議な悲話として語り継がれているが、これと似た出来事が第二艦隊戦没者を慰霊する平和祈念展望台でもあった。


 平成13年4月7日の追悼式開式直後、出席者の頭上にトンボの群れが飛んできた。トンボの季節といえば夏から秋。奉賛会副会長の岩田三千生さん(現会長)は「いまの時期に珍しいな」と首をひねった。それはいつの間にか展望台を埋め尽くすほどの大集団となり、軍艦旗の掲揚、黙とうなどが続く間、低い羽音を響かせ、ヘリコプターのホバリングのようにじっと動かなかった。映画「ホタル」が公開された年、時間は大和などが敵の猛攻にさらされていた午後2時すぎ。岩田さんは「海上特攻で亡くなられた英霊の皆さまがトンボの姿を借りて、私たちに会いに来てくれたんだと思います」と振り返る。


 宮井さんは展望台のイメージソングを作るにあたり、この不思議な逸話に感じるものがあった。タイトルは「千の蜻蛉(かげろう)」とし、大和とともに沈没した矢矧の生存者池田武邦さんが展望台の石碑に刻んだ戦友への想いも込めて詞を書き、メロディーをつけた。


ことし4月7日、宮井さんは展望台で行われた慰霊行事で初めてこの曲を披露した。雨のなか、第二艦隊戦没者の遺族や関係者約100人は目をつむって耳を傾けた。あの日から72年が過ぎ、「水浸(みづ)く屍(かばね)」となった3721人の英霊が眠る海に向け、いまを平和に暮らせることへの感謝を込めた。


 「あのとき、(第二艦隊など日本の兵士が)命をかけて戦ってくださったおかげで、いまの平和な日本がある。池田さんの壮絶な戦争体験に触れ、そのことをより強く思うようになりました」。歌うたいとして岩田さんや池田さんと出会い、おとぎ話のようだった昭和の戦争が、温度を持った最近の出来事だと感じるようになった。


 「千の蜻蛉」は動画サイト「ユーチューブ」で公開中。今月31日発売の2年ぶりのアルバム「青写真」にも収録されている。   (おわり)


 この連載は玉井圭、片山善男、山城一聖、柏木智次が担当しました。


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