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それぞれの戦争を訪ねて① 由良町の池本護さん

2017年8月 5日

 日中戦争(支那事変)が始まる1年前の昭和11年、池本さんは由良町里出身で大阪府庁の公務員として働く父、弥太郎さんと和歌山市木ノ本出身の母、幸子さんの二男として生まれた。家は大阪市天王寺区茶臼山町、現在の天王寺動物園植物園合同事務所がある場所。当時、その場所には富豪の豪邸が建っており、その離れを借りて暮らしていた。公務員の家族ということで鉄道は自由に乗れ、動物園も入園自由。食事は父親の教育でラーメンなど屋台の食べ物は食べず、近くのレストランで洋食を食べるなど裕福な生活を送っていた。18年、出世の見込みがないことに見切りをつけた弥太郎さんが東淀川区の製鉄会社に転職、池本さんは田川国民学校に入学した。池本01.jpg


 日本軍がガダルカナル島を撤退するなど米国の反撃が本格化し、海上の輸送ルートが寸断される中、日本陸軍は19年、陸路の物資輸送ルートを確保するため中国で大陸打通作戦を実施。弥太郎さんも中国の中部地方(中支)へ出征した。また、戦況が悪化する中、疎開を余儀なくされ、幸子さんと池本さんら5人の兄妹は幸子さんの実家がある木ノ本へ移ったが、すぐに父の実家がある由良町里に移り、翌年の20年3月、再び木ノ本に移った。同地域の東端に一軒家を借りて生活を始め、池本さんは木ノ本国民学校3年生に編入した。


 このころ戦況は悪化の一途をたどり、東京、名古屋、大阪、神戸など主要都市の空襲も始まった。池本さん家族が生活する木ノ本から1㌔ほどの場所には住友金属の製鉄所があり、米軍の戦闘機が飛来。ロッキードと呼ばれるP38ライトニングが毎日のように飛んできては、約30度の角度で爆弾を投下。「ロッキードはキーンと高い金属音を出してやってきます。牽制のためかいつも単機で来ていました。爆弾は土の中に10㍍くらい突き刺さり、しばらくして爆発します。木ノ本にいても時間差で地響きを感じました。命中はしなかったようですが、爆発に巻き込まれた人はいたようです」。


 木ノ本の上空にはロッキードだけでなく、グラマンと呼ばれる艦載機(F6Fヘルキャット)も飛来。グラマンの標的は住金でなく、周辺の通行人だったという。「学校から帰る子どもたちを狙って機銃掃射をしてくるのです。私も危うく狙われそうになったので、すぐに近くの里イモ畑の葉の下に隠れました。かなりの低空飛行でパイロットの顔も見えました。向こうからもこちらが子どもだということが分かっていたはずですが、毎日のようにババババーンと撃ってきました。近くの山には本土決戦に備えた高射砲もありましたが、撃てば100倍返しになることがわかってますので、反撃することはなかったです」と振り返る。池本さんが知る限り、機銃掃射の被害を受けた人はいなかったという。
 池本さん家族が木ノ本に来て約4カ月後の7月9日、和歌山大空襲に見舞われる。
和歌山大空襲後の市街地の風景01.jpg

 昭和20年、日本は敗戦への一途をたどる。3月21日、硫黄島守備隊玉砕、4月7日、戦艦大和沈没。国内の主要都市を中心に空襲も始まり、空襲は地方都市にも拡大した。7月9日の午後11時36分から10日午前1時48分にかけて、和歌山空襲が行われた。100機の大編隊で来襲したB29が和歌山市駅やぶらくり丁、県庁、市役所周辺へ焼夷弾や油脂弾を投下し、市の中心部は壊滅状態。死者は1208人、行方不明者216人、重軽傷者4560人、焼失家屋3万1137戸の被害が出た。


 9日は、夕方ごろから米軍の航空機が上空を旋回するなど、いつもと違う動きを見せていたため、空襲のうわさが広がっていた。友ケ島方面から飛来したB29が紀ノ川河口で照明弾を落とすと、周辺が昼間のように明るく照らされ、同時に攻撃が開始された。


 池本さん家族が暮らす木ノ本は和歌山市の北西部、現在の和歌山大学の西約1㌔にあり、中心地ではないものの、住金を狙った多くの爆弾が落とされた。近くの住人らが防空壕を掘ったり、山へ避難したが、池本さん家族は小さい子どももおり、また男手がなく壕を掘ることもできなかったため、「死ぬ時はみんな一緒」と、避難することなく家の隣の空き地にとどまった。木ノ本の南、市街地の空が真っ赤に染まる中、池本さんの家周辺にも多くの焼夷弾が降り注いだ。カタカタと何度も裏の竹藪に焼夷弾が落ちる音が聞こえたが、土が軟らかかったせいか、地中に埋まって燃え上がることはなかった。周辺の家から火が上がり始め、池本さんは兄弟とともに、井戸水をくみ上げて消火にあたった。その間も爆弾は降り注いだが、消火活動が忙しく恐怖を感じる暇もなかったという。


 翌朝、池本さんの家は幸い焼けることなく、家族も全員無事だった。ただ、周辺の景色は焼け野原に変わり、木ノ本でも中心部にあった家屋が燃えたという。2軒隣の家で焼けた牛の肉と米を分け与えてもらったが、とても食べられず、空腹に飢えていた中でも口にする人はいなかったという。


 当時を振り返り、「空襲中はとにかく消火に忙しかったが、翌朝見た周りの様子には驚きました。100㍍離れた家に中川先生という方がいましたが、その娘さんが避難途中、首に焼夷弾が直撃して亡くなったということを聞きました。知っている限り、周辺で亡くなったのはその方だけです」と話す。


 終戦後、父弥太郎さんがマラリアを患った状態で帰国し、復員。21年3月に由良町里の旧海軍官舎へ転居した。池本さんは生活が苦しい中も勉強を続け、高校教諭となり、日高高校などで勤務。退職後はボランティア活動として病院などで演奏を披露している。グラマンによる機銃掃射、和歌山大空襲と、子どもながら戦争の恐ろしさを目の当たりにしてきた池本さん。「戦争はもう絶対、二度と起こしてはならない」と当時の様子を思い出しながら、強く訴えている。


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