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それぞれの戦争をたずねて⑧語られない記憶

2016年8月13日
玉置さんの父董一さんの強制抑留者実態調査
玉置・シベリア調査票.JPG
 「親戚の家で最近、こんなものが出てきたのだが...」。御坊市遺族会(仮家正弘会長)に先日、元兵士の日の丸の寄せ書き、所属部隊の活動記録をまとめた冊子などが届けられた。持ち主は印南町出身で、戦争中は陸軍飛行場大隊に所属し、10年ほど前に亡くなった男性。住んでいた家を解体するにあたり、家族が遺品を整理するなかで見つかり、「何かの資料になるかも」と、男性の親類の遺族会会員(74)から調査を依頼する形で持ち込まれた。

 日の丸の寄せ書きは戦場での幸運が長続きすることを意味する「武運長久」の言葉が1字ずつ四隅に書かれ、白地の部分には数百人もの名前が隙間なく書かれている。ほかに、女性が出征兵士の無事を祈って一針ずつ縫った千人針、部隊の活動記録、回想・追想をまとめた「まぼろしの戦記」など数冊の冊子もある。

 男性が所属していた第32飛行場大隊は、航空機の整備・補給、飛行場の警備など航空部隊の後方支援が任務。昭和18年9月に整備機能が除かれ、主な任務は燃料弾薬の補給、飛行場の警備のみとなった。「まぼろしの戦記」は平成元年ごろに発行され、表紙には責任者として千葉県市川市の男性の名前が記されている。

 遺品の持ち主の男性は日中戦争も含めて3回出征したが、戦後、自身の戦争体験を語らなかった。子どもら家族も聞いたことがなく、今回、遺族会に預けられた遺品についても詳しいことは何も分からないという。冊子に記された責任者の電話番号も現在は使われていない。

 日高町産湯の元県職員玉置雅孝さん(67)はことし6月、県職時代の友人らと岐阜県の世界遺産、白川郷などを巡るドライブ旅行に出かけ、帰る途中、京都の舞鶴引揚記念館に立ち寄った。あくまで「ついで」ではあったが、いつかは行きたいと思っていた。

 父親の董一(ただかず)さんは戦後、国鉄マンとして、和歌山市中之島にあった和歌山機関区に勤務していたが、長男雅孝さんがまだ11歳だった昭和35年4月、自宅で急病死した。働き盛りの45歳。妻フサ子さんは地元区の組合が経営する雑貨店で働きながら、男性にまじって土木作業の仕事にも出かけ、女手一つで雅孝さんら3人の子どもを育てた。

 雅孝さんは、董一さんが亡くなったあと、祖父(董一さんの父)から「董一はシベリアへ連れて行かれたんや」と聞いたことがあった。しかし、そのときはまだ意味もよく分からず、母ともそれについてきちんと話したことがないまま、ことし5月、フサ子さんが95歳で亡くなった。

 フサ子さんの葬儀等も落ち着いたあと、自宅のフサ子さんの部屋を整理していると、戦後強制抑留者実態調査票が出てきた。署名、捺印しながら、書き損じたのか、提出しなかったのか。いずれにせよ、母の字に間違いはなく、父は戦後、ピョンヤン(現在の北朝鮮)で捕虜となり、昭和21年12月まで約1年4カ月、シベリアに抑留されたとある。雅孝さんはそれを見て初めて、父の抑留を確信したという。

 70年前、父はどのような思いで祖国、舞鶴の港に立ったのか。いまとなっては確かめようもないが、あの戦争を母に聞かなかったのは、つらい過去を思い出させたくないという思いやりでもあった。戦争体験を自ら語らず、聞かれることもなく、記憶を封印したまま墓場まで持っていった人は少なくない。


「8月15日が近づくとお父さんのことを考えます」と間戸さん
玉井・間戸.JPG
 御坊市遺族会の婦人部長を務める間戸さと子さん(74)の父、田中時之助さんは昭和19年、激戦地の東部ニューギニア、ヤカムルで戦死した。妻綾子さんとの間に、子どもは出征後に生まれた長女さと子さんだけ。戦地から綾子さんあてに届いた手紙には、わが子の誕生の喜びとともに、さと子さんの写真を見て「さと子とは可愛い名前だが、あまり器量はよくないのでは」と冗談を書き綴っていたという。
 時之助さんは妻とわが子を抱きしめることなく戦場に斃れ、戦争遺児となったさと子さんは、綾子さんに厳しく育てられた。小学校へ入学したときには、100人ほどの1年生の中に、自分と同じ境遇の子が12人いた。当時、国からの恩給はいまよりずっと少なく、母は父の兄の農業を手伝いながら、土木仕事にも精を出した。「お母さんは強く、愚痴をこぼすような人ではなかったですが、私が小学校の2年生か3年生だったでしょうか。夜に布団の中で、『2人で死のか』 『川へ行こか』といったのを覚えています。私は意味も分からず笑ってましたが、どこか不穏な空気を察したんでしょうね。いまもあの言葉が忘れられません」。

 生まれたときから父親を知らず、きょうだいもいない一人っ子のさと子さんは、「母と2人だけの生活をさみしいと思ったことは一度もなかったです」と笑うが、それも自制心を育ててくれた母の厳しさ、あふれんばかりの愛情を注いでもらったおかげ。綾子さんはさと子さんが結婚し、生まれた2人の孫もわが子のようにかわいがり、いまから8年前の平成20年3月、90歳で亡くなった。

 さと子さんが3歳で迎えた終戦から71年が過ぎ、遺族会でも母のように夫を失った妻やきょうだいはほとんどいなくなり、自分と同じ父を戦争で亡くした遺児も最も若い人で71歳と高齢化が進んでいる。全国的に年1回の戦没者追悼式は高齢化している遺族会に代わり、県など自治体が主催して開催されるところが多くなっており、和歌山県は平成25年度から県遺族連合会に代わって戦没者追悼式を主催。御坊市遺族会もおととしまで日高別院で戦没者追悼法要を主催してきたが、昨年からは御坊市の主催で会場も福祉センターへと変わった。

 こうした遺族会会員の高齢化は行事だけでなく、組織の存続そのものにも重くのしかかっている。日本遺族会は英霊慰霊や遺族の福祉増進の取り組みを継続するため、戦没者の孫世代による組織づくりを推進。和歌山県遺族連合会もその方向で各市・郡遺族会に呼びかけており、御坊市遺族会は近く、「孫子の会」が発足する見通しだという。

 父親を知らずに育ったさと子さんだが、誰もが同じように自分も人の親となり、子や孫のかわいさ、親や夫のありがたさが身にしみる。自分の父はどんな人だったのか、母には一度も尋ねることもなく、母もまた語ることなく亡くなった。いまの平和な時代に、子や孫と一緒に暮らせればどれほど幸せだっただろう。

 戦後70年の昨年、県遺族連合会は会員の想いをまとめた書籍「遺児たちの歩んだ道」を発行した。さと子さんも「古稀を迎えて」という文章を寄せ、その中に亡き父と母を想って詠んだ短歌がある。

征きし日に 別れしまゝの亡き父に 会えたかと思ふ母の初盆
 
 母は天国で父に会うことができたのか、また、父はおばあさんになった母が分かったのだろうか。趣味の短歌、孫子の会の設立準備にも忙しいなか、普段はとくに気にすることもないが、毎年8月になり、終戦の日が近づくと、父と母のことを考えるという。 (おわり)


 この連載は玉井圭、片山善男、山城一聖、柏木智次が担当しました。

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