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それぞれの戦争を訪ねて⑤本土決戦に備えて

2016年8月10日
いまもしっかりとした形で残る亀山のトーチカ
亀山銃口.JPG
 昭和19年6月、日本はマリアナ沖海戦で敗北し、8月にはテニアン島、グアム島の守備隊が相次いで玉砕。10月にはフィリピンレイテ島で陸上戦が始まり、11月24日、マリアナ諸島から飛んできたB29が東京を初空襲した。以後、国内ではB29による都市部への空襲が日増しに激しくなり、日本本土はほぼ丸裸の状態となっていた。

 米軍を中心とする連合軍はじわりじわりと距離を縮め、硫黄島が陥落した20年3月26日には、沖縄県の慶良間諸島に上陸を開始。軍部は「一億玉砕」を唱え、最終の本土決戦に備え、本州太平洋側の海岸に上陸兵を攻撃するためのトーチカ(コンクリートで固められた野戦砲座)などの建設を秘密裏に急いだ。美浜町の煙樹ケ浜も連合軍の上陸有力候補地の1つに挙げられていた。

 御坊市湯川町の丸山、富安、小松原にまたがる亀山(標高約120㍍)には、いまもトーチカや横穴の壕が10カ所以上確認できる。国道42号(熊野街道)に面した西側のふもとは民家が多く建ち並び、国道から東へ直線距離で約200㍍、浄土宗西方寺と浄土真宗三明寺のほぼ中間の畑の一画に、トーチカが1基残っている。

 土を掘り抜いたトンネルの片方(国道向き)の口をコンクリートで3段に塗り固め、中段の中央にある銃眼は一辺が30㌢ほどの正方形の穴で、上段と下段より奥まっている。銃眼の下には機関銃の銃身を冷やすためなのか、水たまりが設けられている。案内してくれた地元の男性(68)によると、兵士が出入りするもう一方の穴は戦後すぐ、土地の所有者によって塞がれ、トンネルの高さやトーチカ内の広さは分からない。銃眼は国道に向けて造られており、煙樹ケ浜や塩屋に上陸し、北向きに移動する敵を横っ腹、もしくは後ろから狙撃するためだったと思われる。

 亀山の頂上付近には室町時代、幕府奉公衆、湯川氏の最終拠点となる詰めの山城が築かれた。その規模は県内でも最大といわれ、本丸を中心に二の丸、二の曲輪、腰曲輪の段からなり、現在も本丸を囲む土塁や曲輪群が残っており、昨年3月、県の文化財(史跡)に指定された。

 昭和の日本軍もこの亀山を軍事の要衝と考えたのか。8月15日の終戦がずれ込み、実際に連合軍が紀伊半島に上陸していたなら、これらの野戦陣地はどれほど威力を発揮できたのか。沖縄では「ガマ」と呼ばれる自然の洞窟があり、女性や子どもらはここに隠れて嵐のような艦砲射撃から逃れた一方、迫る敵に追い詰められ、「米兵に殺されるぐらいなら...」と自らの意志で集団自決した人たちもいる。遠く離れたトーチカから放たれた数発の銃弾が、沖縄のような悲劇を招いていたかもしれない。


トーチカや壕の構築場所を示した紀伊防衛部隊築城施設要図(コピー)
築城要図.JPG
 憲法九条を守る立場で反戦、平和のための活動を行っている市民団体、日高平和委員会は昨年7月、旧陸軍の「紀伊防衛部隊築城施設要図」という資料を入手した。連合軍の上陸勢力を迎え撃つため、各地の山にトーチカなどを構築する場所を示した地図で、県平和委員会の依頼を受け、昨年12月から現地調査を実施。今年5月までに4回の調査を行い、今月5日にはその中間報告会が開かれた。

 御坊地区(日高地方)のトーチカ等構築任務にあたったのは、陸軍第15方面軍独立混成第123旅団司令の歩兵大隊、砲兵隊、工兵隊など総勢4865人。日高町、美浜町、御坊市に7つの部隊が配置され、要図によると、119カ所にトーチカや壕を造る計画だった。このうち、日高平和委員会は御坊市湯川町丸山の亀山、美浜町の入山、御坊市野口で計4カ所を調査。入山では2基のトーチカと8カ所以上の壕、野口では小学校南側の山に砲台跡、さらに高速道路を挟んでその東にある後谷池の北側に大きな壕を確認した。

 それぞれの場所に近い小学校の沿革史から派遣されていた部隊名、人数、作業内容等を調べたが、野口小の沿革史は戦後、GHQの調査対策のためか、校舎の接収命令など軍に関する記述はすべて黒く塗りつぶされていた。また、湯川小は沿革史が「きれいに残っていた」(調査メンバー)が、戦時中の記述だけが抜け落ちており、戦後、沿革史がすべて書き直された可能性があるという。

 入山北部の椎崎地区には、掘削中に作業が中止となった未完成のトーチカ跡が残っている。山の斜面の西と東に穴があり、西側の西山に向けて穿たれた穴をコンクリートで固めて砲座とし、東へ約35㍍離れた穴が出入り口になる予定だったとみられている。近くに住む椎崎太一郎さん(84)は「掘っていたのは終戦間際の8月で、私は日中(旧制日高中学校=現日高高校)の2年生でした。両方から兵隊がツルハシで掘り始めてすぐに終戦となり、軍は掘るだけ掘ってそのままほったらかしでしたが、内部の落盤防止の板が分厚く、うちはそれをもらってピンポン台にして遊んだのを覚えています」と振り返る。

 同じ入山で思わぬ戦争のとばっちりを受けたのは、久保谷地区の山の上にある浄土真宗三宝寺。戦時中、すぐ近くにトーチカの砲座が造られたが、兵士の通路となる長いトンネルが本堂の下を通っていた。戦後もそのまま放置された結果、トンネルは大雨が降るたびに落盤し、その地盤沈下で本堂がしだいに傾き、倒壊しかねない状態となった。戦争中は現在の湯川逸紀住職(65)の祖父が住職で、現住職は中高生当時、雨で傾く本堂を見て、「なぜこんなむちゃくちゃな工事を認めたんだ」と祖父をなじったこともあったが、軍に文句をいえるような時代でなかったのはいうまでもない。国との補償交渉も折り合わず、結局、門信徒に無理をお願いする形となり、いまから12年前に本堂を建て替えた。

 報告会で調査結果を発表した美浜町の谷口幸男さん(82)は、「小学校の沿革史の記述をみても、当時は軍が教室を兵舎としたため、1つの教室で複数の学年が交代で授業をしたり、近くのお寺を借りて授業をしたり、子どもたちの教育がないがしろにされていた。私は終戦時、小学校6年生だったが、もっと戦争が長引いていたら、私も先生の勧めで航空兵になって戦死していたかも」と話した。

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