トップページ > 特集・連載>

終わらざる夏2015⑤ 野田才五郎さん

2015年8月 6日
                       
                                石川島工場での作業を振り返る野田さん
20150807野田さん.jpg 南方での戦闘が激しさを増し、国力が疲弊してきた昭和18年6月、東條内閣は深刻な労働力不足を補うため、中等学校以上の生徒や学生を軍需産業や食料生産などに動員する「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定。翌19年3月には「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」で学徒全員の工場配置が閣議決定され、全国の学生・生徒は学業よりも労働が優先されるようになった。日高地方でも各学校の生徒たちは授業を受けることができず、御坊市や美浜町にあった軍需工場での労働を強いられた。


 野田才五郎さん(85)は昭和5年6月25日、日高郡丹生村(日高川町)和佐で農業を営む政吉さんの5人の子どもの二男として生まれた。和佐小学校を卒業後、教師を目指して、日高高校の前身の旧制日高中学校に進学した。18年当時、日本の学校教育は軍事教育一色に染まっていた。日中も例外でなく、野田さんは終戦を迎える3年生の夏までの約2年半、授業はあまり行われず、軍事教練や食料確保のために多くの時間を費やされた。


 学校の制服は、あご紐をしっかり締めた戦闘帽をかぶり、足元は脚絆(きゃはん・ゲートル)を巻いた。「学校の入り口で5年生2人が登校する生徒の服装を検査するのですが、ゲートルは必ずひざ下など厳しく、できていない生徒はやり直しさせられました」と振り返る。午前7時から体操し、その後、竹やり訓練。「上陸してきた敵兵を倒すため」と指導され、農家から提供を受けた竹やりを持って全員で「えい」「やー」と声を出し、何度も突いた。先生の訓示では、日本軍がいたるところで勝利を収めているという戦況が報告され、国のため体力を鍛えて戦争に勝つよう指導を受けた。「当時は報告される戦況を信じ、最後まで日本が勝つと信じていました」。授業では「教練」と呼ばれる科目があり、刀を持った伍長軍曹が厳しく指導。竹やりのほか、相撲や剣道、柔道、体力づくりと、兵隊のような訓練を受けた。


 学校生活は勤労奉仕と軍需工場での作業が中心だった。勤労奉仕は農家に出向いて農作業。若者は戦争に駆り出されているため、労力が足りない農家を手伝い、田植えや稲刈り、芋掘りなどをしたほか、生徒たちで山を開墾、芋などを植えたという。軍需工場での作業では、下級生は石川島航空工業日高工場での勤務となった。同工場は現在の大洋化学㈱(御坊市島)の場所にあり、航空機のエンジンの部品加工を行っていた。野田さんはボルトの研磨を命じられ、毎日、回転する研磨機にボルトを当てては火花を飛ばしながら作業に従事した。「午前中は授業を受けて、午後から工場に行くこともありました。作業は大変でしたが、食事では乾パンと小さなリンゴが出ました。当時は貴重な食料だったので嬉しかったですね」と振り返る。野田さんの学年が上がるにつれ、戦況はさらに悪化し、学校活動も敵の上陸に備える壕作りが中心となった。


昭和17年ごろの日高中学校の運動会では戦闘競技があり、足にゲートルを
巻き銃を持つ選手たちが出場した(「目で見る御坊・日高の100年」より)
20150807のださんP.jpg

 野田さんが勤労奉仕や軍需工場での作業に明け暮れる日々を費やしている中、由良町での作業が命じられた。内容は防空壕掘り。門前の興国寺付近の山で、スコップを手にひたすら穴を掘った。米軍が南方各地の島を奪還、日本の本土防衛意識が高まり、「上陸を食い止めるため」と命じられた。日本の勝利を信じていた野田さんら日中生は、外地での日本敗北の情報はなんとなく耳に入っていたものの、「本土で戦い最終的には日本が勝つ」と信じ、ひたすら掘り続けた。


 由良での作業中は興国寺に泊まった。そこでは毎晩、上級生が何かにつけて下級生を殴っていた。ほとんど全員が殴られたなか、野田さんだけは一発も殴られなかった。それは野田さんの父政吉さんの影響だった。政吉さんは兵隊時代、近衛兵として東京で天皇陛下を守る仕事についていた。近衛兵は各地から選抜された優秀な者しか就くことができず、当時は大変名誉なこととされていた。そのことは学校の生徒にも知れ渡っており、絶対的な階級社会は子どもにも大きく影響し、一度もいじめられることはなかったという。


 日本の敗戦が濃厚になり、本土各地でB29による空襲が激しくなった昭和19年末から20年にかけて、御坊市上空にも多くの爆撃機が飛来した。野田さんは幸い、空襲や機銃掃射などには遭わなかったが、空一面が真っ暗になるくらいの大編成の空襲部隊が和歌山上空を通って、日本の各都市に向かう様子を何度も目にしたという。


 終戦を迎えた20年8月15日、3年生の野田さんは学校の運動場で陸上競技部として活動していた。天皇陛下がラジオで日本の敗戦を伝えた玉音放送は学校で聴いた。「最初は何のことかよくわからなかったが、あとで日本が負けたこととの説明を受け、皆で悔しがりました。うすうす戦況が良くないことはわかっていたが、最後には本土で戦って日本が勝つと信じていました」と話す。


 中学校1、2、3年と思春期を戦争の中で過ごしてきた日々を振り返り、「あのころは大変でしたが、仲がよかった〝和佐三羽ガラス〟の2人と学校帰りに、アイスキャンデーを食べるのが楽しみでした。野口の川沿いを歩きながら食べましたね。また、歌が好きだったので、みんなで軍歌などをうたって帰っていました」と、過酷な生活の中もちょっとした楽しみを見つけて過ごした青春の日々を思い出す。「戦争のころを振り返ると、いまは夢のような社会です。若い人たちに当時のことをよく知ってもらい、いまがどれだけ幸せであるかを感じてほしいです」と、平和のありがたみを感じる日々を過ごしている。





関連記事

by weblio


 PR情報