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終わらざる夏2015⑩ 丸山尚夫さん

2015年8月13日
                     浜名海兵団で艦砲射撃を受ける前に撮られた記念写真(前列中央が丸山さん)
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 御坊市湯川町丸山の丸山尚夫さん(92)は、大正12年9月3日、父重治さんと母てるさんの長男として日高郡湯川村(現御坊市湯川町)丸山に生まれた。兄弟は3人。湯川尋常高等小学校を卒業後、教職員を目指して和歌山師範学校に通っていたが、中等教員になりたくて東京の国学院高師部に入学した。戦局悪化に伴う兵力の確保のため、昭和18年10月、当時の東條内閣は高等教育諸学校の在学生の徴兵延期措置を撤廃する在学徴兵延期臨時特例を公布。いわゆる「学徒出陣」で、丸山さんは病み上がりで徴兵検査を受け、第一乙種合格。12月10日、辞世の歌一首と爪を母のタンスにしまい、学生服に「出征兵士」と書いた白いたすきをかけ、村の人らに見送られて広島県の大竹海兵団に入団した。ここで海軍魂を嫌というほどたたき込まれる。


 第10分隊1班に配属され、厳しいしごきが始まった。両手に水の入ったバケツを持って長時間立たされたり、終わりのない腕立て伏せは当たり前。海軍といえば5分前の精神、より早く、より正確にがモットーで、もたもたしていると兵長から容赦ない鉄拳がとぶ。訓練や生活は連帯責任、どれだけ真面目に頑張っていても1人が失敗すると集団しごきが待っている。「南方の島の名前からとったのか、『タラワ・マキン棒』と名付けた太く長い樫の棒で思い切り何回も尻をたたかれるんです。失神してしまう者は、バケツで頭から水をかけられていました。憧れていた海軍のイメージはかき消されましたよ」。


 棒倒しや漕艇の競走でも一番がたたえられ、丸山さんはここで「何か一つでもトップになってやろう」と決心。海軍では起床して寝ていたハンモックを片付け、訓練服を着て集合場所に集まる「総員起こし」から一日が始まる。俊敏さに自信があった丸山さんはある日、総員起こしのラッパの音が鳴った瞬間、訓練服をひっかけて真っ先に兵舎を飛び出し、指導教官が待つ練兵場目指して全力疾走。班と名前を名乗り終わった時にはその場にぶっ倒れそうになったが、見事一番乗りとなり、「貴様、よくやった」と褒められたのを覚えている。これが認められたのか、分隊士の身の回りの世話をする係を命じられた。「相撲でいえば横綱の付き人です。靴磨きや短刀の手入れ、書類の整理整頓などが役目で、部屋の掃除は髪の毛1本も落とさず、靴の裏までピカピカに磨きました。その甲斐あってか、それ以降は厳しいしごきはかなり免れました」。2カ月ほどたった19年1月、士官候補生の採用試験を受け、国語、数学、物理、歴史などの試験を見事パス。「ピタゴラスの定理の証明を解けたときのうれしさは今でも忘れません」と振り返る。第1期生として満州の旅順方面海軍予備学生教育部へ入校。海軍士官教育を学べることを誇りに感じて勉強に励み、厳しい寒さの中での漕艇訓練などを約半年経験し、7月10日に卒業した。


 フィリピン方面への配属を希望したが、長男という家庭事情をくんでくれたのか内地に戻り、千葉県の館山海軍砲術学校に入校となった。敵機に高角砲を命中させるにはどの角度、タイミングで砲撃すればいいか。複雑な計算式をもとに対空砲撃の勉強に明け暮れたが、「グラマンは時速500㌔以上で飛んでくるんです。それに弾を当てるなんて至難の業ですよ」。5カ月ほどの訓練を終え、19年12月25日に卒業し、翌日には海軍少尉候補生として浜松の隣にある新居町の浜名海兵団に分隊士として着任。20年4月20日には浜名警備隊も兼任し、内地防衛に従事した。このころから空襲が激しくなり、B29やグラマンに脅かされることが多くなった。少尉に任官して間もない7月29日夜、これまで経験したことのない攻撃を受ける。それはB29などによる空襲ではなく、艦船からの激しい砲撃で、「真っ暗闇の中、海から無数の火の玉が飛んできた」。戦後70年たってもあの光景は目に焼き付いている。


激しかった連合軍の攻撃の資料を手に丸山さん
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 沖縄戦に敗れて敗戦が色濃くなっていた昭和20年7月下旬、連合軍の本土への攻撃は激しさを増していた。B29を中心とした空襲だけでなく、攻撃は戦艦や巡洋艦からの砲撃も少なくなく、海兵団のある新居町や隣接の浜松も標的となった。


 浜名湖の西側にある新居町の広い敷地にある浜名海兵団の兵舎で消灯後の午後10時すぎ、複数の小型の敵機が新居町上空で照明弾を投下した。「いま思えばこれが艦砲射撃の予告だったのでしょう」。11時すぎには「バーン」「バーン」と爆弾が着弾する轟音が響き、その音は次第に近づいてきた。「総員退避」の号令で兵舎敷地内に並ぶ数十カ所の防空壕へと急いだ。そのとき見た光景は忘れられない。「はるか沖合から砲弾が発射されているのでしょう。まさに真っ赤な火の玉となって、轟音を響かせながら頭の上を飛んでさく裂する。この世の地獄だと思いました」。防空壕といっても、海岸沿いでは掘っても水がしみ込んでくるため、天蓋のついた大きな防空壕が二十数個、隣とは数㍍ほどの間隔で並んでいた。全員が逃げ込んだが、「すさまじい砲撃に死を覚悟しました。軍刀を固く握りしめ、じっと身を伏せていました」。この時、すぐ隣の防空壕が砲弾の直撃を受けた。約1時間続いた砲撃が収まり、着弾した防空壕では20人以上の兵士が犠牲となった。「志願して、ここへ来たばかりの若い兵士がほとんどでした。これからという若い兵士の死を見るのは本当につらかった。弔う前に兵舎で通夜をし、亡き兵士の遺体の前で皆、涙の合掌をして冥福を祈りました。生と死は両極ではなく、紙一重であることを痛感しました」。


 記録等によると、このとき浜松と新居町を艦砲射撃したのは米英連合軍で、戦艦3隻、巡洋艦4隻、駆逐艦など総勢21隻からなる任務部隊。攻撃目標は浜名海兵団兵舎や浜松駅、機関車庫、中島飛行機新居工場などとされ、発砲する砲弾の数は各艦船270発と決められていたという。浜松と新居地区には砲弾がなんと2160発も打ち込まれたことになる。このうち浜名海兵団のあった新居地区には270~400発前後の砲撃があったといわれている。


 終戦も浜名海兵団で迎えた。「天皇陛下のお言葉があると聞き、その場で緊張して不動の姿勢で聞き入りました。まったく信じられない気持ちで、何度か仲間に聞きましたが、間違いではなかった。負けると思っていなかったので、みじめでしたが、みんな表面的には平静を保っていたのが印象に残っています」。丸山に戻ってからは厳しい教職適格審査を見事パスし、硝煙の臭いがまだ消えやらぬ日高の地で教職に就き、38年間勤め、昭和60年3月、日高高校を最後に退職した。


 「戦後になって聞いたことですが、私たちは戦争に負けていないと思っていましたが、中には初めから日本は負けると言っていた人もいたようです。やはり教育の違いであり、教育の大切さを象徴していると思います」とし、戦後70年を迎えたいま「平和とは何か、戦争をしないことは当然として、豊かな日本でも貧困や虐待、悲惨な事件はあります。互いに思いやりを持つことが大切で、その気持ちがあれば戦争もやらない。教育は大切だと思います」と静かに語る。


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