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「ごめんなさい」が言える社会に

2010年1月26日

 車の運転をしていて事故に遭っても、先に「ごめんなさい」を言ってはいけない、と聞いたことがある。謝ると自分に非があるということを認めることになるから、と。そのため初めて事故に遭ったとき自分から謝ることをためらった。相手も謝罪どころか被害の大きさをことさら訴えてきて、補償の問題で分が悪いとなったときに初めて謝罪の言葉を聞いた。事故そのもの以上にそういうやりとりが嫌だと感じたのを覚えている。
 
 足利事件の取り調べで無実の人間を「自白」させた元検事。再審公判の証人として出廷したが、最後まで謝罪の言葉を口にすることはなかった。17年間のあらましをつづった菅家さんの手記「冤罪」や新聞に発表されていた取り調べのテープ内容を読んでみると、確かに菅家さんの供述は二転三転しており信憑性は低い。DNA鑑定などすべての要素をひっくるめて、「無実だとは思わなかった」というのも理解できなくもない。しかし、事実が判明したいまは自分の行為を少しでも省みることはないのだろうか。何度も謝罪を求めた菅家さんの思いを理解しようとはしなかったのだろうか。口先だけの謝罪では許されないと思っての態度なのか、それとも元検事としての意地とプライドか。どちらにしろ後味が悪く、心に重くひっかかる。
 
 悪いことをしたとき、間違っていたときに「ごめんなさい」と謝ることは小学1年生でもできる。事態が大きいほどそれが簡単なことではないというのも、年齢を重ねていくうちにわかってきた。誰だって、できることなら人に頭を下げることなく生きていきたい。しかし、相手を思いやることをせず「ごめんなさい」を言えない人にはなりたくない。そんな社会にしてはいけない。       (と)

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